あぁーやばいやばいやばい。
ろくな文章を書けぬまま、今日は〆切当日だ。
今日は夫に奏太の相手をしてもらって、どうにか夕方までに仕上げないとかなりまずい。
ヘタな原稿を提出したら次はない。ジ・エンド。
集中して書くにはどうしたらいいだろうか。そもそもあの音源なんなの?
取材したって言ってもさ、30分、店主の夢しか語られてないし。
店主 「脱サラしてラーメン屋をオープンするのが夢でした。今後の夢は店舗を増やして、47都道府県すべてにお店を持ちたいな。うん、いずれは海外にも」
店の紹介するんだからさ、ラーメンの味のこだわりとかさ、店の雰囲気とかさ、そういうことをちゃんと聞いてよ。
あー、本当なら自分で行ってこの目で、この舌で確かめたい。
ネットを見ても、オープンしたばかりで口コミが少ないし、「これと言って特徴のないラーメンでした。いいところは低価格な点だけかな」と言うような内容ばかり。これでどうやって魅力的な紹介文を書けっていうのよ!
満 「………ごめん。あのさ…今から会社に行くことになった」
奏太 「えー、パパなんで?」
満 「…キリ、聞いてる?」
夫に名前を呼ばれ、我に返る。
奏太 「ねぇ、ママー。パパ、会社に行くって言ってるよ」
キリコ 「はぁ!?」
驚き過ぎて腹の底から大きな声が出た。
夫は逃げるように布団を出て、リビングへ向かう。私と奏太はすぐさま追いかける。
甘かった。 子育てしながら働くのがこんなに大変だなんて。 / 第5話 sideキリコ

運命を感じた新築戸建ての家を購入するべく、キリコは奏太が幼稚園に入園する4月からライターの仕事を再開しようと決意。しかし、RAIRA・神林に頼まれ、予定よりも早く仕事を再開することになる。4年ぶりの仕事に胸を踊らせていたキリコだったが…。

第5話 side キリコ

満 「今日の撮影が強風で中止になったらしくて」
キリコ 「はぁ!? で? なんで出勤なのよ!?」
満 「今日現場に行くはずだったアシスタントがフリーになったから、面談をすることになってさ。もともと面談をやるはずだった日に、撮影日がリスケになって…」
キリコ 「はぁ!? 面談ってなに!?」
満 「新規事業の…」
キリコ 「てか、新規事業ってなに!?」
満 「ええっと高級クリーニング店のララウって知ってる?」
キリコ 「ララウ? あー、なんかハンガーがクロスしてるみたいなマークの?」
満 「そうそう。知ってるんだ?」
キリコ 「前にお昼の番組でやってたわ。で?」
満 「そこのお直し業務をうちがやることになってさ。俺、担当なのよ。マネージャー業も並行してやってるから、バタバタで。もう少ししたら落ち着くと思う」
並行すんな、並行すんな。
並行するのはマネージャー業と親業だけで十分じゃ!
イライラしている私を尻目に夫はしゃがみ込んで奏太と視線を合わせる。
満 「奏太、明日は遊ぼうね」
奏太 「ダーメー!! 今日あそぶの!」
満 「奏太ごめんね。出来るだけ早く帰って来るから」
奏太 「……もうしらない! パパきらい!」
ママもパパきらい! と言いたいところだけど仕方ない。
キリコ 「…私もさ、〆切が今日の夕方なんだよね」
満 「うん。困ったね。この前預けたともだちっこにお願いしてみる?」
キリコ 「…預けたらギャラが入っても、プラマイゼロかもね」
満 「でも他に方法がないよ。ごめん。用意するね」
夫は身支度をして家を出て行った。

さて、どうするライターキリコ。
この執筆は未来のため。家を買うためだ。だから成功させるのは家族のためでもある。
奏太、今日はともだちっこに行っておくれ。
拗ねてテレビを見ている奏太に声をかけようとして、テレビに映し出されたグルメリポーター彦摩呂が目に入る。
彦摩呂 「見てください、このスープの色! 黄金色! 魚介だしと香味野菜の良い香りが食欲をそそります。で、見てください、この店内。まるでカフェみたいでしょ。女性のお客さんも多いんですよ」
果たして奏太を預けたところで、私は「マウンテンヌードル」の素敵な紹介文が書けるのだろうか。
夢だけ語ったインタビューと参考にならない口コミ、神林が送ってくれたラーメンと店の外観写真のみで。
これまでこういう仕事はいくつかあった。困った時は、現場に行き、体験して記事を書いてきた。
私にはいくつかある仕事の1つでしかないけど、依頼してきた人にとってはお店や自分の人生がかかった記事なんだもの。
仕事を請けた以上、子連れだろうとなんだろうとやり切らないと。
私は彦摩呂にうなずいた。
キリコ 「奏ちゃん、ママと京浜東北線乗りに行こうか」
奏太 「え! けーひんとーほくせん? いく!」
一気にテンションが上がった奏太を自転車の後ろに乗せ、私は川口駅に向かった。風が強くてかなり体力を使ったけど、心は折れていない。
電車に乗りさいたま新都心駅に着くと、土曜日ということもあってけっこうな人数の人たちがいた。
やや不思議に思いつつも、グーグルマップで「マウンテンヌードル」の場所を検索する。
駅から800m。微妙に遠い。近くにバス停があるようだし、バスに乗るか。
奏太 「ママ、おしっこ」
キリコ 「え!」
奏太を抱え、トイレを済ませ、バス停に向かうとバスはちょうど出発したところだった。強風のせいなのか何なのか、バスの中はかなり混んでいるようだ。

そして次のバスを待つ列がもうできている。これはもう…歩いた方がいいかもしれない。
キリコ 「奏ちゃん、がんばって歩こう」
奏太 「どこいくの? ぼく電車見たい」
キリコ 「電車は帰りも乗るから」
奏太 「どこいくの?」
キリコ 「うーん、ラーメン屋さん」
奏太 「やーだ。ぼく、ハンバーグがいい」
キリコ 「とにかく行こうよ! 寒いから!」
奏太 「だっこ!」
あぁ、いっそベビーカーを持ってくればよかった。
そんなことを思いながら、13キロ超えの奏太を抱っこして、向かい風をくらいながら私は歩いた。
…重い。500mで限界に達し、奏太をどうにか励ましながら商店街にある「マウンテンヌードル」に到着した。ひとまず暖を取れる、そう思っていたのに…。
キリコ 「…なんで」
集客に苦戦しているはずの店に、行列ができていた。意味が分からず動揺しながらも男性客ばかりの列に並ぶ。
奏太 「ママ~、なーに、ここ? ちゅるちゅるのにおいがするよ?」
キリコ 「うん…。ラーメン屋さんだからね」
奏太 「やーだ! ぼくハンバーグがいいって言ったでしょ! あっちの方がいい!」
奏太の指さす方を見ると、「マウンテンヌードル」の向かいに高級ファミレス「ロイボ」がある。
キリコ 「今度ね。今日はここのラーメン食べようよ。そのために来たんだもん。美味しいんだって」
奏太 「やーだー!!」
奏太が絶叫すると前に並んでいる若い男性が振り返る。…こわっ。ふと、後ろを向くと、後ろの男性からも冷たい視線。
アウェイ感が尋常じゃない。しかしどうしてこんなに混んでるんだろう? しかも若い男性ばかり。
奏太 「ママ。ひつじさんがいっぱい」
キリコ 「え?」

再び奏太が指さす方を見ると、男性客のパーカーや持っているタオル、キーホルダーに同じ黒い羊のイラストが描かれている。
そして「Black Sheep」のロゴ。ん? これはもしや…。
スマホを取り出し、検索してみるとロックバンド「Black Sheep」が今日の14時からさいたまスーパーアリーナでコンサートじゃないか! ついてない…。
奏太 「ママ、ママ~!」
こんな風の強い日に何の特徴もないラーメンを食べるために、子連れで並ばないといけないなんて…。ハードルが高かった。でもだからと言って、食べずに帰るのも…。
奏太 「ママ、ママ~!」
キリコ 「しー。もう少しだから頑張って。あとね、1、2、3、4、5番目」
奏太 「がんばれない! うんち漏れちゃう」
キリコ 「……え?」
奏太 「うんち! でちゃうよ!」
他の客の視線がさらに痛い。どうしよう。ぜったいに順番を開けて待っていてくれる雰囲気じゃないし…。また並ぶのもきついし…。うんちは待ったなし…。
店員 「次のお客様どうぞ」
ちょうどその時、店から店員が顔を出した。
キリコ 「あの…! ちょっとトイレに」
奏太 「出ちゃう!!」
奏太の切羽詰まった声を聞くと同時に、私は奏太を抱き上げ、向かいの「ロイボ」に滑り込んだ。
店員 「いらっしゃいませ」
高級ファミレス内に羊マークはいなかった。
急いで席に荷物を置き、トイレに向かう。
奏太 「すっきりした~! ハンバーグたべよ、ママ」
キリコ 「…そうだね」
うんちは間に合ったけどトイレだけ借りて出て行くわけにもいかず、私は窓から見える「マウンテンヌードル」に視線を送る。
一人だったら出来たことも、今は難しいことになってしまった。
そんなこと奏太を産んだ時から分かってたことだけど…。はぁ…。

もう仕方ない。帰りにDVDでも借りに行って、奏太が見てる間にどうにかやるしかない。
パソコンを開くといたずらしたがるから、手書きかスマホか…。
そんなことをぼんやり考えながら川口駅に戻り、レンタルショップに向かおうと自転車を走らせていると、いつの間にか奏太が眠ってしまっていた。――マジか!
いろいろあったけど、結果オーライである。
私は家に着くと奏太を布団に寝かせ、執筆を開始した。
2時間ほど経ったと思う。私はパソコンの前で頭を抱えていた。やっぱり書けない。
だってラーメンの味も店内も見てないんだもの。帰ってきてから狂ったようにネット検索して、いくつかの情報は得たけど…。
奏太 「ごほっ…ごっ…」
寝室から奏太の声が聞こえてきて頭を上げる。わー、終わってないのに起きちゃう。どうしよう。
奏太 「げほっ! げほげほげほげほっ! げほっ! 」
キリコ 「…奏ちゃん?」
奏太 「げほっ! …うわーん! …うわあーん!」
急いで奏太の元に行くと、奏太は真っ赤な顔をして泣いていた。
キリコ 「どうしたの?」
奏太を抱きしめると、奏太の体が熱い。…風邪ひいてたっけ? いや、鼻水も出てないし、咳だって出てなかったのに。あれ…?
ぐるぐる頭の中で考えながら体温計を奏太のわきの下に挟むと、ピピピという音と共に「39.3℃」と表示されている。
キリコ 「…え」
奏太 「げほっ…! げほげほげほげほっ!」
――それから私は咳が止まらずぐったりしている奏太をベビーカーに乗せ、ブランケットを掛け、風よけのためにカバーをして小児科に向かった。
風邪薬を飲ませて、温かくして眠らせよう。そう風に思っていたのに…。
医師 「気管支炎ですね」
キリコ 「……え? あの…咳をし始めたのはお昼過ぎからで…。それまで鼻水も咳も出てなくて…」
医師 「体力が低下しているときに風邪をひくと、重症化しやすいんですよ。今日は吸入機も貸し出ししますので、使ってください。気管支炎がひどくなって肺炎になると入院ってことにもなりますから」
キリコ 「………はい」

医師に言われた「体力が低下しているとき」がずっと頭の中でループしてる。
今週、どうにか原稿を仕上げようと必死で、奏太を昼寝させようと必死で、長い時間お外遊びをさせてた。今日だって風が強い中を連れまわしちゃった。私のせいだ。
自己嫌悪に陥りながら、私は現状を夫にメッセで伝えた。
夕方までに原稿を、という思いは消えてない。でも咳が苦しくて泣いている奏太を一人寝かせておけるわけがない。
ジ・エンド。
私は奏太の背中をさすりながら、鼻から思い切り息を吸い込んで神林に電話を掛けた。
神林 「お世話になっております、RAIRA編集部 神林です」
キリコ 「…お疲れ様です」
神林 「お疲れ様です。どうかしましたか?」
キリコ 「あの…実は…息子が…気管支炎になってしまって」
神林 「えぇ」
キリコ 「それで…その…〆切って延ばせないでしょうか。…あの…もし今晩時間がもらえるなら」
神林 「急ぎってお伝えしていたと思うので、それは難しいですね。まったく書き終わってないんですか?」
キリコ 「いや、一応…書いたものはあるんですけど、そのままサイトに載せるレベルでは…」
神林 「こっちで修正するので、とりあえず今あるものを出してもらえますか? お願いします」
キリコ 「…あぁ…はい。ご迷惑をおかけしてしまって、本当にすみませんでした。また何かありましたらぜひお…」
神林 「はい、じゃあお疲れ様でした」

電話が切れ、一気に体の力が抜ける。
キリコ 「…奏ちゃん、ちょっと待っててね」
奏太 「…うん」
リビングからノートパソコンを取り、寝室に戻ると、私は現状の原稿を神林に送った。
こんな中途半端なものを提出したのは初めてだ。
もう依頼こないだろうな。苛立っている神林の顔が浮かんで、ふっと笑う。
一体、今週はなんだったのか。
パパが自分で洗濯したと思われるシャツがカーテンレールに吊るされ、床には抜け毛やほこりが見える。家事をおろそかにしただけで、私は何も成し遂げられなかった。
なにをどうしたらよかったんだろう。誰か教えて欲しい。
奏太 「ごほっ、ごほっ…。ママ…」
キリコ 「なぁに?」
奏太 「…お茶のみたい」
キリコ 「うん」
お茶を飲ませ、吸入器をして、時間が過ぎて、奏太の咳が少しおさまってきた。
やっと眠りにつけた奏太の髪を撫でたあと、私はリビングのこたつに入った。
18時か。…あの記事、もうアップされたのかな?
見たいような見たくないような気分で私はRAIRAのサイトを見に行く。
キリコ 「………うわー、ほぼ丸々修正されてる。ははっ。私が書いた部分ないじゃん」
こんなこと初めてだ――。
私はスマホを床に放り投げると、こたつに突っ伏して少し泣いた。
まさかパパも同じころ、傷ついているなんて思いもせずに。

▶︎▶︎ 次回、第6話は、2/23(金)公開予定!
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