カッパーレッド色のマフラーに鼻の頭あたりまで顔を埋めながら、俺は白金台駅から会社に向かう長い下り坂を歩いていた。
…あぁ。寒い。岐阜よりは寒くないけど、なんか寒い。
まるで若者のようにはいしゃいだ岐阜の夜。楽しかったなぁ。
でも江原だってタカヒロだって、今日は普通に働いている。
えびす顔でお客を物件に案内し、韻を封印してオーダーを取りに行っている。
俺だってマネージャー業を頑張らないと。
俺がマネージャーをしているスタイリスト派遣事務所「フリープラン」はこの半年で、少しは売り上げがマシになっていた。
危機は脱したけど、また同じことにならないとは言えない。
熱いコーヒーでも飲んで仕事を始めようと思った矢先、「満、ケンゾー、ちょっと来い」と社長に声をかけられた。
スタイリストリーダーのケンゾーと目を合わせ、首を傾げる。
1年の最後にまた何か問題だろうか。そう思いつつも、特にざわざわしない自分がいる。慣れって怖い。
昔、何かで聞いたことがある。カエルが熱湯に落ちたら、慌てて飛び出すけど、水から徐々に熱湯になるとその熱さに気づいて驚いた時にはもう飛び出す元気もないと。
いやいや、俺はそこまで麻痺してない。そんなことをぼんやり考えながら、会議室に入った。
優柔不断な俺は、いつも社長に振り回される。 / 第4話 side満
家族で岐阜の実家へ帰省した夜、満は地元の友人たちと飲みに行き、久しぶりに酔っ払ってバッティングセンターに行く。ストレスが飛んでいくほとはしゃぎながらも、自分たちが年をとったことを感じる。
週明けの月曜日、岐阜での楽しかった夜を思い出しならがら満が会社に向かうと…。
第4話 side 満
席に着くと社長は「相談なんだけど、服のお直し業務を新規に始めようと思う」と言い出した。
…ん? これは相談というより報告じゃないか?
前にすごく綺麗なビジネスパートナーの女性と「ネイルサロンをやろうと思う」って言った時もこんな感じだった。
あの時は向こうが乗り気じゃなくなって助かったけど。あの女性、すごい顔が小さかったな、俺の拳くらいしかなかったんじゃないか?
俺が机の下で拳を作っていると、隣の席からケンゾーがそれを真剣な顔で見つめ、うなずく。
え? なに?
ケンゾー「社長、ちょっと待って下さい」
社長 「まぁ、話を先に聞けよ」
ケンゾー「…満さん」
ケンゾーが困った表情で俺を見るので、俺はとりあえず微笑んでうなずく。
満 「…まずは聞いてみよう?」
ケンゾー「…分かりました」
社長 「よし、まずは起承転結の」
社長が「起承転結」って言い始める時は、話が長い時だ。
社長 「起から始めるぞ」
満 「……はい」
社長によると、うちが衣装を借りている貸衣装屋の社長と飲みに行った時に、衣類高級クリーニング専門店『Lalau Wash』(ララウ・ウォッシュ)の社長・内藤と知り合ったらしい。
どちらも「酒」「ゴルフ」が趣味、そして「同い年」で、すぐに意気投合。
あぁ2人が肩を組み合っている絵がはっきり目に浮かぶ。
社長 「続いて承」
満 「………」
社長はその飲みの席でスタッフ愛を語り、「スタッフたちを活かせる新規事業を何かやりたいと思ってる。そこで利益を出して、アシスタント育成にさらに力を入れたい」と会社の未来像を語ったらしい。
おそらく朝まで飲んだんだろう。同席する羽目にならずに済んでよかった。
社長 「そしてここでまさかの転。運命のような転」
運命と言っても「幸運になる運命」と「転落する運命」があるじゃないか。
そこのところ、ちゃんと見極めたのだろうか。
社長が感じ取っちゃった運命。
それは「ララウが抱えている宿題」にあった。
ララウは高級クリーニング店だけど、全国から依頼品が届くほど人気で、芸能人のお客も多い。
そしてそんなセレブなお客から「服のお直し」の相談もけっこう来ているらしい。
でもララウは「洗う」お仕事のプロ。
専門外の「お直し」をやるとなると、外注するしかない。
「良い物を知っているお客様が満足してくださるお直しをどこへ外注すべきなのか」と内藤は悩んでいた。なるほどね。
コトの結末が分かりうなずいていると、ケンゾーが「ふぅ」と息を吐いたのが聞こえてきた。
社長 「で、結…」
ケンゾー「お直しの外注がうちに来たんですね、ララウから」
社長 「おいおい。一番いいところを食うなよ。…まぁ、そういうことだ。どう思う、満」
…おいおい、はこっちの台詞ですよ。急に俺に意見を求めないでくれよ。
俺は何でもじっくりゆっくり考えるタイプなの。今聞いた話をすぐにどうこう…。
ケンゾー「道具はどうするんですか? お直しする場所は? 借りるんですか? 初期費用ばかり掛かって、負担になるようなことは厳しいんじゃないですか?」
俺が心の中でぶつぶつ言っている間に、ケンゾーが口を開く。
社長 「そこは心配するな。初期費用はララウが持つと言ってくれている。スタイリングのプロである俺たちがお直しすることで目の肥えたお客を満足させられるからな。どうだ、良い話だろ?」
すでに高級クリーニング店として名が売れているララウのお直し業務なら、確実にお客は取れるだろうし…。
引き続き黙っている俺と、考え込んでいるケンゾーを置いて、社長は話を進める。
社長 「まずはララウのゴールド・プラチナ会員対象にプレ営業をしてみることになった。ま、試しにってことでな。それで……」
社長は椅子に座ったままでカツカツと音を立てながら、ホワイトボードに文字を書いていく。
――――――――――――――
・指名等が少ない、出番の少ないスタイリストやアシスタントでお直しの仕事ができそうなやつをピックアップ
・その後、1対1で説明
・実際、やることになったスタッフの人数確認
・それを受けて作業部屋の選定
・必要な道具をララウ側と作業スタッフ側に確認
※必要経費は基本的にララウ側が出すことに。
――――――――――――――
妙に右上がりの社長の文字を読んでいる俺の隣で、ケンゾーが顎を触りながら再度、大きく息を吐く。
ケンゾー「…はぁ」
社長 「これをまず満とケンゾーにやってもらいたい」
えーっと、これはいつまでにやるんでしょうね?
そう言おうとして社長を見ると、「ちょっと待って下さい」とケンゾーが口を開いた。
社長 「なんだ?」
ケンゾー「通常業務をしながらやるのは難しいです、俺」
あー、やっぱりそうだよね。よかった、俺もそう思ったんだけど、それって俺のキャパが足りないだけなのか分からなくてさ。
通常業務こなしながら、これいつまでにやれっていうんだろうね。
社長 「対策は考えるよ。だってケンゾー、これを満1人にやれっていうのか? 鬼じゃないんだからさ」
あー…ケンゾーがパスしたら、俺1人でやるんだ?
俺のモヤモヤを置いて、二人は話を続ける。
ケンゾー「俺はスタイリスト業をおろそかにしてまで新規事業はやりたくないです、正直」
社長 「はっきりしてんなぁ」
本当はっきりしてる。どうやって育ったらそんな真っ直ぐに育つんだろう。
ケンゾーの親御さんの教育方針を知りたい。
…俺と真逆ということは、親御さんはきっとケンゾーと過ごす時間が多かったってことかな。
…いや、いい年して親の育て方のせいにしてる場合か。
俺も言おう、キャパオーバーになりますよ、と。
満 「あの…」
社長 「じゃあ、いいや。俺と満でやるから。な?」
満 「……そう……ですね」
俺はね、言えないんじゃないんだ。弱虫なんかじゃないんだよ?
単に平和主義なだけなんだ…。どうでもいい言い訳を心の中でしつつ、会議は終わった。
――「飯行きましょ」。昼時、ケンゾーにそう声を掛けられ、俺とケンゾーは近くの中華料理店に向かった。
ぐつぐつと土鍋の中で踊る豆腐をレンゲで救い、口に運ぶ。
熱い! というか辛い! さすが四川麻婆豆腐。
俺がハフハフと口を動かしている横で、ケンゾーが大きなため息を吐く。今日、何度目?
ケンゾー「お直しとかやってる場合なんですかね」
満 「うーん。まぁ、アシスタントの育成に力を入れるための、お金集めみたいだから、一概にダメとは言えないかもね」
ケンゾー「そうですけど…。急すぎませんか? いや、一方的というか。もう決定事項みたいなもんだったじゃないですか?」
うん、それ俺も思ってた。
満 「そうだねー。社長はやると言ったらやる人だからね。人の意見はあんまり気にしないよね。すごいよね。失敗とか怖くないのかな。怖い人は会社なんか作らないのか。俺には無理だな」
店員 「烏龍小籠包です」
満 「あー、どうも」
ケンゾー「お直しって扱うのは服ですけど、スタイリングとは全然別物だし、そんなことの担当までやるのイヤじゃないんですか?」
ケンゾーは運ばれてきた綺麗な抹茶色の小籠包も見ずに険しい顔を続けている。
そんな風に怒れるっていいことだと思うよ。俺はもう熱いことに気づけないカエルになってしまったのかもしれない…。
満 「あー…、なーんかもう社長の無茶ぶりに慣れすぎちゃって」
へへへっと笑ってケンゾーを見ると、ケンゾーもつられて少し笑顔になる。
ケンゾー「満さん、理解ありすぎですよ。あー、もうお腹空きました」
満 「うん、食べよ」
ケンゾーがやっと食べ始めたから、俺も再びアツアツを味わう。
おいしい。ふぅ、と額の汗をおしぼりで拭い、再びケンゾーを見る。
満 「まぁ…、やりたいかやりたくないかって言われるとやりたいわけじゃないけどさ。今まで通りマネージャーの仕事もするし、社長の意見を突っぱねるほどの意見なんて持ってないしね、俺」
ケンゾー「でもお直しやりたいやついるのかな、アシスタントの中に。…あっっつ!」
――それからララウとの打ち合わせの日々が続いた。
ララウ本社は運河からの強風が吹き抜ける新豊洲駅近くにある。
今日は俺1人、ララウの担当者・住田と打ち合わせしていた。
住田は俺と同世代だけど、なんだかキラキラ生き生きして見える。
いつもワイシャツがパリッとしているからだろうか。さすがララウ社員。
住田 「お直しの依頼はララウ側で宅配依頼と一緒に受けます。でも、詳細なお直し内容はフリープランで受けてほしいのでお願いします」
満 「あ…はい」
住田のシャツばかり見ていたことにハッとして、俺はノートパソコンに言われたことを打ち込む。
住田 「ララウはお客様の個人情報をすべて番号で管理しているので、回収された服にはその番号の札が付いた状態でフリープラン側に渡す流れになります」
満 「…はい」
住田 「今回プレ営業対象となるのは、会員様の中でもゴールド・プラチナのお客様です。クリーニングに出される服も高級品ばかりなので、きちんと技術を持ったスタッフを選定してください」
満 「…分かりました」
住田 「あと他にフリープラン側で良いアイディアがあればぜひほしいです。こちらとしては年内にはプレ営業を始めて、利益が期待できそうであれば、春くらいから全会員向けに営業したいと考えてますので」
住田のハキハキとした感じに押されつつ平日が過ぎ、やっと土曜日になった――。
今週はほぼ終電で、奏太の寝顔しか見れなかった。
きっと奏太は俺と遊べず寂しい思いをしたはずだ。今日は思い切り遊んであげないと。
あげないと。あげないと………。でも寒さと眠さで布団から出られない。体が動かない。瞼が開かない。
そう思っていた次の瞬間――。
満 「……うっ!」
奏太が俺の上に飛び乗り、「起きろ~!」と大声をあげた。
内臓の何かがつぶれたんじゃないだろうか。
満 「…起きる…起きるから…痛い…。パパの上で暴れないで…」
キリコ 「ちょっと私も仕事あるんだけど。何時まで寝てる気? 9時過ぎてんだけど」
満 「……っ!」
キリのどすの効いた声が聞こえ、俺の目がパッと開く。
キリコ 「はぁ…。仕事終わらないし、洗濯物が溜まってるし、それなのに曇ってて乾かなそうだし、風はバカみたいに強いし、布団干せないし」
キリのグチを聞きながら起き上がろうとすると、俺のスマホが鳴った。
表示を見ると「会社」。
嫌な予感。出たくない。出てはいけない気がする。カエルの勘。
満 「……もしもし。…はい…あー…はい」
電話に出た俺は静かに電話を切った。
キリコ 「とりあえずさ、奏太を連れてどこかで遊ばせてきてよ。外が厳しいなら、室内遊び場とかさ。それか私が図書館に行ってもいいけど。朝ごはんはもう食べさせたから」
奏太 「ぼくね、でんしゃにのりたいの」
キリコ 「あー、いいじゃん。パパと乗ってきな」
満 「………ごめん。あのさ」
その日、強風じゃなければ未来は違っていたかもしれない。
この運命は「幸運になる運命」と「転落する運命」。
どちらだろうか――。
▶︎▶︎ 次回、第5話は、2/20(火)公開予定!
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