他のお母さんたちは、
自分が自分のためだけのものでなくなって
好き勝手できなくなることは、
苦しくないのだろうか。
子どもを産んだら、
これまでの幸せとは別のもの
(たとえば家族に尽くすこと)を
「幸せ」と感じるようになるのだろうか。
想像してみても、
ちょっと自分にはその境地は
無理そうだと思った。
私は独身時代からずっと
自分のためだけに生きてきた。
好きなこと、やりたいことを
日々にぎゅうぎゅうに詰め込んできたし、
結婚してからも何かを
我慢したり諦めたりはしなかった。
私は小さい子どもには
見せたくないような映画が好きだし、
身も蓋もないことを考えていたりするし、
動きにくくて繊細な洋服も好んで着る。
私の持つ「お母さん」のイメージとはそぐわない、
このような私にも母性はちゃんと芽生えて、
母親らしくなれるのか。
産んでから「だめでした」では困るし
子どもも自分も不幸ではないかと思うと、
なかなか妊娠する決心がつかなかったのだ。
こうした悩みが少しずつ解消されたのは、
子育て中の友人たちと会うなかでのこと。
10代の頃から知っている友人たちが
子どもを抱いていて、
おしゃべりのあいまにも世話をする姿は、
かなり新鮮というか衝撃だった。
口が悪くて喧嘩っ早かったあの子や、
下ネタばっかりしゃべっていたあの子が、
優しく楽しそうに子どもに話しかけて
ちゃんとしたお母さんになっている。
(ように私には見えた、実際はそう上手くいく
日ばかりじゃないだろうけれど)
ああ、立派になって…と思っていたら、
学生時代に盛り上がっていたのと同じテンションで
下ネタ満載に出産体験を語られて脱力した。
でも、大変だっただろう出産の体験を、
感動的にではなく面白おかしく
あけっぴろげに話して
どっかんどっかん盛り上げちゃうのって、
サービス精神が旺盛な彼女らしくてとてもいい。
子育てを通して
新たに彼女に顕れた一面もあれば、
出産したからって
変わらないところもあるのだと知った。
これまで私が持っていた漠然とした
「お母さんのイメージ」が、
現実感のある生身の「お母さん」に
更新された瞬間だった。
昔から知っている友人が
ちゃんとお母さんになっていて、
でもべつに別人になってしまったわけじゃない、
というのを見せてくれたのが
よかったのだと思う。
考えてみれば当たり前のことだけれど、
親しい友人がそれを体現して
見せてくれたことで
「産んだからって無理やり
変わらなくてもいいのかもしれない」
と少し力を抜くことができた。
これまでみたいにがちがちに身構えなくても、
いろんなお母さんがいていいんだな、
自分にもやれるかもなと思えたので、
夫と相談の上妊娠を試みることにしたのだった。
それからしばらくして、私は妊娠した。
▶第2章
妊娠したわたしを待っていたのは、
母親予備軍としての生活だった…?