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公開 2016年06月07日  

北海道の「男児置き去り事件」の親を、私たちは責められないはずだ。

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世間をにぎわせた北海道の置き去り事件、
あなたはどう思いましたか?
私は個人的に、とても大切なことを教えてもらいました。
その理由をお伝えします。


目次
もし本当に“虐待”だとしても
誰もがそこに立っている可能性があった
事件で気付いた、大切な事

こんにちは。シンガポール在住、子育てアドバイザーで四児の母、ついでに姑との葛藤も抱えています、宮うちみかと申します。

先日世間を大いににぎわせた、北海道で起きた“置き去り事件”は大団円の結末を迎えました。同じ親として、見つからなかった期間は胸がつぶれそうに痛みました。

ちなみにシンガポールでも、やまとくんの写真が大きく新聞に載り、報道されました。世界中の親が、見つかったことに心からほっとしていると思います。本当によかったですよね!

この事件に対する反応として、両親を糾弾するような厳しい見方と、ある程度の理解を示す寄り添った見方とが交錯していたように思います。

私個人としては、もちろん男の子が見つかったという前提での話ですが、事件に対して今は「感謝」の念を抱いています。

今回はその理由について、お話しさせてください。

もし本当に“虐待”だとしても

厳しい見方をする意見には、“子どもに対する虐待”という言葉を使用したものがありました。“虐待”の文字は、親としての立場上、嫌でも目についてしまいます。

その字面を見る度に、私はいつでも、「あの立場にいたのは、もしかしたら自分かもしれない」と思います。

この手に抱いて大切に育んできた我が子に危害を加えるまで、追い込まれてしまった彼らを助ける術は無かったのか。出口の無い暗闇に1人立たされているような、沈んだ気持ちになります。

子どもを過剰に怒り過ぎた事を後悔して、妙に次の日は優しくなること、皆さんも経験はありませんか?きっと、誰しもがあると思います。

彼はそんなふうにごく普通の、私たちと変わらない親の1人に見えました。私たちは本当に、彼らを責める権利があるのでしょうか。

誰もがそこに立っている可能性があった

私は未熟な母親です。大切な我が子を憎たらしく思ったり、怒鳴ったり、時には手を上げてしまった事もあります。

一日の終わりですら、私はいつでも子ども達に笑顔でおやすみを言えるわけではありません。

大好きだよと抱きしめてベッドに送る日もあれば、怒声で寝室に追いやる日もあります。

少なくとも私自身は、あの少年の親と全く同じだと思います。もしかしたら、あの立場にいたのは私かもしれないと真剣に思います。彼らを責める権利は、私にはありません。

事件で気付いた、大切な事

今この瞬間が、“この子と会える最後の時”という自覚があれば、どんな親でも、怒り顔や怒声で接するという選択肢は、きっと選ばないでしょう。

それでも無意識に私たちは、「今日という日が次の日も、その次の日も、変わらずに訪れる」と思い込んでいるのです。

この事件で、私はそれが幻想である事を知りました。

今日という日が突然断ち切られ、怒り顔のまま我が子と別れる可能性がある事、二度と子どもに笑顔を見せられない可能性があるという事実を知りました。

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以上が、この事件に感謝している理由です。

きっと、これから私は今まで以上に、子ども達を大切に出来ると思います。もちろん完璧には出来ません。後悔することもあると思います。間違いもたくさんすると思います。ですが、「今、このとき」を大切にすることを、少なくとも今まで以上に意識することが出来る。それはこの事件の前後での、大きな違いです。

だから私は、ご両親に伝えたい。大切なことに気付かせてくれて、ありがとうございます、と。

もし同じ親としての立場で、この両親の行為を責めたい気持ちにかられた方は、正しさを主張する前に、ご自分がどれだけ今日と言う日を大切にしているか、子どもの笑顔を守れているか、小さな事に幸せを感じる自分であるかを、改めて顧みてはいかがでしょうか。

この事件を経て私たち親が得るべきは、「怒り」ではなく、「学び」だと思うのです。

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