今から35年ほど前まで、重度障害といわれる子は、養護学校(今の支援学校)でさえ、入学を拒まれていたことをご存知でしょうか?
1979年に養護学校が義務化される前までは、就学猶予や就学免除といって、学齢期に達した子の保護者に対し、学校に就学させる義務(就学義務)を猶予または免除しますね、と子ども本人や保護者の気持ちを聞かずに決められていました。言い方を変えれば、学校に通うことを認めてもらえなかったのです。
そんな頃に、大阪では、そうした子どもたちを受け入れていた学校がありました。それが、大阪の「ともに学び、ともに生きる」教育の始まりだろうと思います。
大阪の枚方市では、その頃、「重度障害児学級」というのが、設置されたそうです。
最初は、障害のある子ばかりを集めて一つの教室で過ごします。今のように支援学級などない時代ですから、教師の数も足りません。17人の児童を2人の教師が担当する形でスタートしたそうです。子どもたちは、じっとしていませんから、すぐに教室を飛び出す子もいて、教師一人が授業を行い、もうひとりの教師が子どもを追いかける毎日だったそうです。
やがて、一部の教科は、障害のない子どもと同じ教室で学ぶようにしてみたのだとか。その時に、思いがけないことが起こっていきます。
同じ教室で過ごしていると、大人の想像を越えて、様々な子ども達同士のやり取りが起こっていきます。以前のコラムでも、私の娘の運動会での出来事を記したのですが、娘の周りでは、他にもステキなことが沢山ありました。
あるとき、娘がディズニーランドの曲が好きだからということで、子どもたちが休み時間に「ミッキーマウス・マーチ」や「小さな世界」の曲を笛で吹いてくれていました。上手に吹けない子は、娘に聴かせる為に一生懸命練習してくれたそうです。音が乱れていると、娘は、逆に怒ってしまうこともあるので、子ども達は真剣だったようです。その話を聞かせてくださった担任の先生からは、「おかげで、うちのクラスの子どもたちは、笛が上達しましたよ」と。
また、娘は言葉もしゃべれなかったので、周りの友達は、娘が「なんで怒ってるのだろう?」「何が悲しいんだろう?」と、よく娘の気持ちを考えてくれていました。中学の担任の先生からは、クラス懇談会時、「ちぃちゃんが、なんで怒ってるんやろう?なんで泣いてるんやろう?と思うようになったことで、クラスの子ども達が、ちぃちゃんに限らず友達の気持ちを考えるようになった。」と話してくださったこともありました。
他の障害児の親御さんからの話にも似たような話が出てきます。よく聞く話は、自分の子のかけっこが遅い分、周りの子達が一層頑張るようになり、同じリレーチームの子ども達のタイムが、どんどん上がっていくのだとか。そして、障害のある子の方も、友達と同じことがしたくて、真似をして、訓練では何度やってもできなかったことをあっさりやってのけるようになったのだとか。
実際、私自身、そのようなことは、いつも実感してきました。そして、刺激を受けるのは、子ども達だけでなく、大人も同じでした。