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公開 2021年07月28日   更新 2022年07月22日

イヤイヤ期の記憶がある私。あの日起きた奇跡について。

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イヤイヤ期のあの日、私は母を察しの悪いわからず屋だと思っていたし、困った人だと思っていた。


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私は、決して聡明な人間ではないのだけど、どうやら記憶力だけはいい。


2歳くらいから、おぼろげながらも記憶があって、3歳を過ぎたあたりから記憶の彩度はぐっと高くなる。

仲の良かったお友達のことも、おゆうぎ会のことも、おうちごっこでのつまらない喧嘩も、保育園の床の感触も、履いていた長靴も、ありありと思い出せる。

小学校へ上がって以降の記憶なんて、先週の記憶より鮮明だ。


2歳ごろから記憶があるので、つまり私はイヤイヤ期の記憶を持っている。

あの訳が分からない、イヤイヤ期の複雑な心境にも、実はちゃんとではないけど、それなりに理由があった。少なくとも私はあった。



あれは、私がつくし組さんだったころ。

季節はたぶん初夏。

私、2歳半くらい。

あの頃、私は毎日、うんざりしていた。

母が差し出す服にだ。

毎朝、母がタンスの前に私を連れて行き、着替えをさせてくれていたのだけど、母が提案する服がいつも、野暮ったくてがっかりしていた。

綿素材のいわゆる「汚れてもいい服」。

そんなものを着せられるのが、本当に嫌だった。

私はかわいい服が着たいのに。

毎日毎日「ああこれか」と、小さく落胆していた。


服ってのは、母が選んだものを着せられるものだと思い込んで、生まれてからの2年を生きていたから、最初のうちはがっかりしながらも受け入れていた。

だけど、ある日どうしても我慢ができなくなってしまった。

堪忍袋の緒が切れたみたいに。


「毎日毎日、うんざりなんだよ!!!たんすのはじっこある、イチゴがついた、あのかわいいおようふくを出せ!!!!」そんなふうに思ったのだ。

思ったんだけど、あいにくまだ2歳なので、言語化する力がとても弱い。

そして、服は用意されたものを着るという、産まれてから曲げられたことのない小さな、けれど大きな私の常識が邪魔をした。

そういう世の中だとは知っているんだけど、うまく言えないんだけど、それでも抵抗したかった。

それが、イヤイヤの正体だった。


イヤだ、と言って母が出した黄色いTシャツを突っぱねた。

母が「じゃあこれは?」と、違う服を差し出しだのだけれど、それもまた、野暮ったい薄汚れたTシャツだった。

それも嫌だとそっぽを向いて、母はまた違うTシャツを出して、それもまた嫌だと言って抵抗した。


イヤだイヤだと言いながら、私はずっとイチゴの刺繍がついた、愛らしいブラウスのことばかり考えていた。

白くてハリっとした素材がとても可憐だった。

胸元に散らばる、小さなイチゴの刺繍がお姉さんらしかった。

袖がバルーンになっていて、まるでお姫様のお洋服みたいだった。


「イチゴのブラウスが着たい」そう言えたらよかったのだけれど、なんせうまく言えない。

そこは、しょせん2歳の言語中枢だ。

2歳ながらに、なんか知らんけどイチゴのやつはダメなんだな、ということくらいはおぼろげに理解していたのだけど、なんでだめなのかが分からない。

そして、なぜだめか分からないゆえに、うまい交渉の仕方が思いつかなかった。


今なら、きっとよそ行き用の服だったのだろう、と想像がつくのだけど、2歳にはそこまで分からないのだ。



けれど、その日は突然やってきた。


その日、どういう風の吹き回しか、母が突然「好きな服を選んでいいよ」と、私をタンスの前に連れてきて、ふらりと部屋を後にした。


タンスの前には、私ひとり。


私にとって、千載一遇のチャンスだった。


今なら、母の目を気にすることなく、イチゴのブラウスを着られる、そう思った。

おそるおそる引き出しから、イチゴのブラウスを取り出して、袖を通した。

ボタンがないすっぽり被る形をしていて、簡単に着られた。

胸元のイチゴが、それはそれはかわいかった。


あの高揚感と緊張を、よく覚えている。


別室の母のところへ行って、服を見せた。

首から下を壁のうしろに隠して、そぉっと見せた。

「いつもの服じゃないから、ダメって言われるかもしれない」と、少し不安だった。


母は、服を見て、怒るでも不機嫌になるでもなく、「じゃあ保育園行こうか」と笑った。



そして、その後20年以上経ったある日、私は母の真意を知ることになる。

当時の連絡帳が出てきたのだ。


「ここのところ、服を着替えるときにあれもイヤこれもイヤで、困っています」と書かれてあった。


日付を見ると、6月28日(土)。確かに初夏だった。


そして、それに対して担任の先生から、「自分で選ばせてみたらどうでしょう」というお返事がついていた。


そして、週明けの母「今日は自分で選ばせたら、ご機嫌です」。


そして先生、「かわいいイチゴのお洋服だよ、と言って嬉しそうに見せてくれましたよ」。


あの日の私の葛藤と、成功の裏には、こんなことがあったのか、と驚いた。

母が、急に服を選ばせてくれて、運が回ってきたような気持でいたけれど、あれは先生からのアドバイスだったというわけ。


母に訊ねたら「そんなことあったっけ」という、呆気ない返事だけが返ってきたけれど、私にとってはあのイチゴのブラウスを着られた日は、まるでスポットライトが当たったみたいな、明るいおめでたい日だった。


その後、私の記憶では、あのブラウスを着たいとは言わなかったことになっている。

ほんとうなら、保育園に着て行ってはいけない服だと、どこかで理解していたから、一度着られたことで満足した。

もしかすると、なにかを察した母が、野暮ったくない服をいくつか与えたのかもしれない。



他にも、同じころ、朝食のメニューが気に入らなくて、駄々をこねて泣いた記憶もある。

それもやはり、私なりの事情があって、だけどそれをうまく言語化できず、まかり通らない理屈と知りながらも、どうしても譲りたくなかった。

最終的に、泣いて喚いたけれど、そんな自分を俯瞰で見ているようなもうひとりの自分もいた。

なぜか、泣いていた私を真上から映したような映像が、今も脳裏に浮かんでいる。

もしかすると、イヤイヤ期ってエネルギッシュに駄々をこねているけれど、内心は意外と冷静なものなのかもしれない。

ヒーヒーと、呼吸困難みたいに泣きながらも、「あー苦しいなぁ。でも泣きたいんだよなぁ。」とか、たぶん思っているんだと思う。



あの頃の記憶があるから、イヤイヤ期には冷静に対応できていたかと言われたら、全然そうじゃない。

特に長女のときは、一人目ということに加えて、まったく私とは違うタイプのイヤイヤだったから、ただ疲弊した。

彼女は、ぐずるとか泣くとかがなく、ただにこにことご機嫌なまま「やだ」をえんえん繰り出すタイプだった。

こちらとしても、お気持ちを量りかねるし、表情はいたって穏やかなので、「そうか」と答えるしかないのだった。

そんなふうに、100人いたら100通りのイヤイヤがあるのだから、こんな記憶はさして役に立ちはしないのだけど、どこかでイヤイヤと仰け反るお子さんと、この文章がピタッと重なって、ジャーンと視界が開けるなんてミラクルがあるかもしれない、と淡い期待を胸に、この文章をネットの片隅に置いておくよ。


※ この記事は2024年03月22日に再公開された記事です。

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