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心配から起こる干渉と、信頼から生まれる距離感。バランスってとても大事。

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責任だとか、自分の面目だとか、親になると面倒なことがついてまわるもので、ついつい余計な干渉をしてしまいそうになる。

その手を、ぎゅっと後ろで結ぶことの難しさについて。


私の実家は、小さな工務店のようなものを経営していて、父も母もいつもそこそこ忙しかった。

母は、毎朝7時半ごろからばたばたと事務所の掃除に入るので、私たち姉妹はのそのそと起きて顔を洗ったら、すでに食卓に用意されてある母がつくった朝食を食べて、誰にともなく「いってきまーす」と言って、学校へ行っていた。


帰宅したら、事務所にちょこっと顔を出したあと、自室で宿題をした。

宿題が終わったら自転車に乗って友達と公園に行ったり、習い事に行ったりしていた。

母はあらゆる家事をきちきちこなして、仕事をしていたわけだけれど、私たち子どものことに関しては、あまり足を突っ込まない人だった。

各々、各自、適宜良きようにしてね、という感じ。

母自身、忙しかっただろうし、同居の祖父母も健在だったから肉体的にも精神的にも、余裕がそんなになかったんだろう。


学校の宿題に関しても、習い事に関しても、各自で適宜良きようにしていた。自分たちの裁量だけが頼りだった。

母は、姉や妹のピアノの練習や進捗を気にしたこともないし、私が通っていたスイミングの習熟度に、興味を示したこともない。

テストでぎょっとする点数を取って、叱られたこともなければ、100点を取ってべらぼうに褒められた記憶もない。

私たちは、それが普通で当たり前のことだと思っていたし、そもそも学校も習い事もテストも、私個人のものだから母が気にしたり一喜一憂する類のものではないと、当然のように思っていた。

それは、なにも特別なことでも、さみしいことでもなんでもなく、ただ「普通」だった。



小さいうちは「普通」だと思っていたことも、思春期を迎えればなんだか「不満」に変わってしまったりするのは、通過儀礼みたいなものだろう。

私もその例外ではなく、自分の中の苦い部分を、母のせいにして、つまらない小言を腹の中にため込んだりもした。

母があまり関心を示してくれなかったから、とか、母があまり興味を持ってくれなかったから、とか、母が褒めてくれなかったからとか、不満はいくらでも噴出した。

不干渉な母が悪い、と心のどこかで思っていた。


ところが、自分に実際、子どもが生まれてみて、それがいかに難しいことかを思い知る。

特に、長女が小学校に上がってから。

彼女は算数がやや苦手らしく、宿題をしていて「ここがわからないの」ということがたまにある。

そして、どれどれ、とのぞき込んで「まじなの?」と思ったりしてしまう。

例えば、ただの直線が引いてあって、「何センチ何ミリか計りましょう」というものであったり、方眼用紙に「3センチと4センチの辺で挟まれた直角三角形を書きましょう」というものだったり。

大人からすると、考えるまでもなく分かるような問題に、子どもは立ち止まったりするものらしい。

まだ生まれてほんの8年しか経っていないんだから、そういうこともあるだろう。

分からない問題があったって、ちっとも構わない。

んだけど、冷静に「これはね」と説明するそのはざまで、「だだだだ、大丈夫かしら。ちゃんと先生のお話を聞けているんだろうか。授業中に赤鉛筆で遊んだりしているから、こんなことになるのでは。それとも朝は小食で、脳に栄養が足りていないのでは」と、つまらないことを、あれこれ考えてしまったりもする。



習い事にしたってそうだ。

ピアノの先生から「あの…もう少し練習を…」と、進言されてしまった日には、心の中で小さな悲鳴を上げている。

長女のやる気に、完全に丸投げしていた私への、小さな苦言に違いない、と胸の中がざわざわする。

ほんとうは、長女がやりたきゃやればいいし、本人がうまくなりたいなら熱心にやるだろう、と思っているのに、先生のひと言が気になって、そわそわと練習に誘ったり、もっとこうしたらいいんじゃない、と構ってしまう。

息子のサッカー教室も、遊びに行くくらいのつもりで始めたはずが、近ごろ、息子の同級生のお友達が熱心に自主練なんかをして、めきめきと上達しているのを見て、もっと練習しなくてはならんのだろうか、とそわそわしたりもしている。



そして、子どものテリトリーに踏み込むのは、健全ではないと知りながら、「寄り添う」という便利な言葉でもって、ついあれこれ干渉してしまいそうになる。

干渉は、心配に由来するから厄介だ。

あれこれ心配されるのが、心地よいことだとは到底思えない。


要らない干渉をしないでいるということは、ときどき忍耐を強いられることでもあるし、子どものことを信じていないと、できないことに、ようやく気がついてしまった。

長女の算数だって、ピアノだって、息子のサッカーだって、どんと構えて、君たちを信じているよ、きっとすべてはうまくいくよ、と手放しでいようとするには、私の場合、時々、少し努力が要る。

子どものほうで、なにをどういうふうに望んでいるかは、今のところ不確かだけれど、彼らが困ったときに差し出せる手を後ろに持って、見守る方が、どことなく健やかに感じている。

心配に由来することより、信頼に由来することをしていたいし。

長女の就学を境に、手を引っ込めることの難しさを痛感するにつけ、母のナチュラルに(多分)あの距離感…、まじすごいな…、と思うことが度々ある。

つまりは、信頼されていたんだとようやく気がついて、ようやく感謝できるようになったのが、最近のハイライト。


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この記事を書いた人
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ハネ サエ.

成分のほとんどは3児のおかあさん。
おかあさん以外のときは取材をしたりエッセイを書いたりしています。

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