唯がトースト係に復帰した。毎朝、前みたいに2枚のトーストを焼いてくれる。ガスコンロに置いた網の上で。
「中間テストが終わったら朝練もだってー。週3回!」
私がつくったオムレツを食べながら唯が言う。私は、きれいなキツネ色に焼けたトーストを手にそれを聞く。
「朝から坂ダッシュ10本だよ?10本はキツイって」
唯はバスケ部に入部した。平日は毎日練習で、私が仕事を終えて家に着くのと同じくらいの時間に帰ってくる。
帰宅後は、だいたい、リビングでボーッとテレビを見ているけれど、よっぽど疲れているのか、そのままソファの上で丸くなって寝てしまっていることも多い。
そうなると、落ち着いて顔を合わせるのは朝食の時ぐらいになる。
親としては体調をくずしたりしないかと心配になるけれど、本人はなんだか楽しそうで、グチを言う声もはずんでいる。
「とりあえず、今日から部活なしだから!」
「遊ぶためじゃないからねー。テスト勉強するんでしょー」
私が軽くたしなめると、唯は「はーい。わかってまーす」とさらに軽く返事をして、トーストの最後のひとかけらを口に放り込んだ。
「ごちそうさま!」
パチンと手を合わせると、唯は勢いよく席を立ち、バタバタと身じたくをはじめる。
平和が戻ってきた。
唯は、また私の目を見てくれるようになったし、笑顔や冗談もたくさん出るようになった。楽しそうに部活やクラスの話もするし、こうしてトーストだって焼いてくれる。
だけど、小学生の頃は毎日のように話題にしていた、「ありさちゃん」の名前だけは口にしない。
夕方、駅前のスーパーまで買い物に出る。
せっかくの定休日、のんびり過ごそうと昨日のうちに買い物を済ませたつもりだったのに、小麦粉をきらしてるなんて。
今日の夕ご飯はグラタンだ。テストのおかげで唯も早く帰ってくることだし、久しぶりに2人でゆっくり食事ができるはず。
買い物を終え、スーパーを出て、家へと向かう。歩道を歩く私の横を、中学生が乗る自転車が2台、通り過ぎていく。楽しそうに大きな笑い声をあげながら。
唯も、もう帰って来てるかも。
少し足を速めたその時に、後ろから「庸子さん」と名前を呼ばれた。振り返ると、片手を上げた中村さんが早足で近づいてくる。
「あれ、お疲れさまですー。事務所に戻るところ?」
「はい。買い物帰りですか?」
「そうなの、小麦粉きらしちゃって」
そんなやりとりをして、私たちは並んで歩く。うちのマンションと中村さんの事務所はすぐ近くにある。
世間話をしながら、公園の前を通りかかる。家から一番近い公園だ。
唯が小さな頃には、休みのたびに遊びに来た。夢中で砂遊びする唯を、ベンチに座って眺めるのがお決まりだった。
敷地をぐるりと囲んで植えられたツツジが、終わりに近づいている。
もう春もおしまいだなあ、なんて思っていると、「あれ、唯ちゃんじゃないですか?」と、中村さんが言った。
彼の視線の先を見ると、公園の中ほどに置かれたベンチに唯が座っていた。
その隣に座っているのが誰だかすぐにわかり、ドキリとする。
ありさちゃんだ。
はっきりと顔は見えなくても、背格好でわかる。華奢な手足に長い髪。おいおい、ちょっと、近すぎるんじゃない?
2人はほとんど寄り添うようにして、お互いの膝を叩いたり、肩を押したりしながら、楽しそうに話している。
もしかして、あの2人……。いや、でも、まさかね。
そう思った瞬間だった。
ただでさえ近かった2人の距離がグンと縮まり、確かに重なった。ほんの一瞬だったけど、この目で見た。間違いない。
2人は、キスをしていた。
「庸子さん?」
中村さんに顔をのぞき込まれて、言葉が出ないまま、首を振った。たぶん、すごく変な顔をしている。
「あの、ちょっと、あっちの道から行かない?」
このまま行けば唯に見つかる可能性が高い。
私は来た道を早足で戻り、公園の手前の角を曲がった。
そして、唯たちがすっかり見えなくなったあたりで立ち止まり、早口で中村さんに話しかける。
「すごく仲がいいんです、あの子たち。小学生の頃からいつも一緒で。中学生になって、クラスは別々になっちゃったんですけど、でも……」
「唯ちゃん、すごく、楽しそうでしたね」
焦って言葉を並べる私に、いつもと変わらない穏やかな笑顔で中村さんはうなずく。
あれ、もしかして、見えてない?私は「そうでしょう」と答えながら中村さんの表情をうかがい、また歩き始める。
どうやら大丈夫みたい。そう思うのと同時に中村さんが立ち止まり、「ちょっと、話して帰ります?」と先にある喫茶店を指さした。
ああ、やっぱり、見えてないわけないか。
「見えちゃった?」
「はい、見ちゃいました」
中村さんは苦笑いを浮かべている。私も気が抜けて、「ははは」とため息みたいな笑いがこぼれた。必死にごまかそうとして馬鹿みたいだ、私。
もし、時間があれば、という中村さんの言葉に「時間は、大丈夫」と答える。
夕食までにはまだ間がある。もう唯が帰ってくるかもしれないけれど、このままの気持ちで顔を合わせられる自信がない。中村さんの申し出は、すごくありがたい。
「じゃあ」と言って、中村さんは喫茶店のドアを開け、私も後に続く。店内にはほとんど客の姿がなくて、ホッとする。
「いらっしゃいませ」という声を聞きながら、奥の席に座ると、すぐに店員が水を持ってきた。私たちはメニューを開くこともなく、それぞれコーヒーを頼む。
テーブルに置かれた水を一口飲むと、自分の喉がカラカラだったことに気がついて、そのままグラスを一気に空にした。「もう一杯、もらいます?」という中村さんの言葉に、首を振る。
「どうすればいいんだろ。私。」
口に出した途端、深い深いため息が出る。両手で顔をおおい、くぐもった声で「もう、わかんない」とつぶやいた。
「大丈夫。宝箱を開けちゃったと思えばいいんですよ」
指の隙間からのぞくと、そう言った中村さんはにっこりと笑っていた。
次回、「庸子の話を静かに聞く中村さん。すると、中村さんから思いがけない話が…」