今朝、唯はトーストを焼いてくれなかった。
テーブルの上に、目玉焼きとスープを置き、ため息をつく。
というか、まだリビングに姿もあらわさない。いつもだったら、たまに寝坊で遅れることはあっても、私が物音をたてている間に起きてくるのに。
昨日のこと、やっぱり怒ってるよね。
ドアの前に立って耳をすませてみる。
「唯、起きてる?」
声をかけてみても返事はなし。ドアを開けるかどうか少し迷って、やめた。テーブルに戻り、一人で目玉焼きとスープを食べる。
家を出る時に「ママ、行ってくるね。テーブルの上にごはんあるから」と、ドアに向かって声をかけたけれど、やっぱり返事はなくて、私はため息をつきながら仕事に出かけた。
「ありさへ」とはじめられた手紙は、まぎれもないラブレターだった。
目にしていた時間はほんの数秒だったけれど「ずっと大好きだった」「友達としてじゃなくて」と唯の字で書かれた言葉が、今もはっきりと思い出せる。
それにしても、なんで手紙を読んだりしてしまったんだろう。ああ、本当に失敗した。しかも、それを唯に見つかるなんて。
「ごめん、落ちてたから、何かと思って……」
言い訳にもならない私の言葉に、唯は首を振り、うつむいた。その肩が小刻みに震えていて、私は焦る気持ちでさらに口を開いた。
「いいと思うよ。女の子が好きだって、いいと思う。こんな手紙が書けるなんて、素敵だと思う」
早口で言うと、唯は、驚いたようにパッと顔を上げ、私を見た。
今思えば、そこでやめておけばよかったのだ。
その後が、余計だった。
「それに、きっと、いつか普通に男の子を好きになるから。唯ぐらいの年の子で女の子が気になるのって、よくあることだと思うよ」
言い終わらないうちに、唯は無表情で私に近づき、あっという間に手紙を奪い取った。
そして、両手で私の背中を強く押した。すごい力だった。
「唯、ちょっと待って、ごめん、ちがうの」
押された背中から、唯の強い拒絶が伝わる。
謝る私の言葉など聞こえないように、唯は黙ったまま、私の体を部屋の外へと追い出し、バタンと大きな音をたててドアを閉めた。
それから、唯は一日中部屋に閉じこもった。約束をしていたはずの友達にも会いに行かず、ほとんどずっと部屋の中にいた。
何回かキッチンに姿を見せたけれど、食パンやお菓子を手に取ると、すぐに部屋へ戻った。
その度に、私は声をかけて謝ったけれど、唯は、一度も、私の顔を見ることすらしなかった。
ちゃんと唯と話をしなくちゃ。
手紙発見から二日目の朝、目を覚まし、ベッドに寝転がったまま、心を決める。
いつもより丁寧に朝食をつくって、唯を起こそう。
そう思いながらリビングにいくと、そこに唯がいた。「うわ」と思わず声が出たけれど、唯はテーブルに向かって座ったまま、こちらを見ない。
自分で用意したのだろう。トーストと牛乳だけの朝食を食べ終わるところだった。
「起きてたんだ、早いね。おはよう」
私が声をかけると、こちらを見ないまま「あのさ」と言う。
「目玉焼きとかスープとか、もういらないから。自分でトースト焼いて食べるから。中学に行って、部活の朝練とかあったら、これからママと時間合わせるのも大変じゃん?自分のは自分でできるから、別々でいいよ、もう」
そう言うと、私が何か言う前に立ち上がり、皿とコップをシンクに置いて、さっさと自分の部屋に行こうとする。
「トーストだけじゃ、ダメだよ。育ち盛りなんだから。一日持たないでしょ」
「お昼と夜ごはん食べるから平気」
「そういう問題じゃなくて。朝にしっかり食べないと」
「じゃあ、バナナとか買っておいてよ。勝手に食べるから」そう言った唯は、ほんの少し考えるように間を置いた後、「やっぱりヨーグルトにする。ギリシャのやつ」とつぶやいた。
なんだそれ。反抗するなら反抗するで、自分でやってよ。親を頼るな。
と思ったものの、もちろん言葉にはせずに、口をつぐむ。そうしている間に、唯は何も言わずに部屋に入り、バタンとドアを閉めた。
あれじゃ、話をするどころじゃないじゃない。
自分のためだけに料理をする気になれず、私もトーストだけでいいやと、袋から食パン取り出した。
唯がガスコンロの上に置いていったままの網の上にそれを置き、火をつける。
それから、唯が置いていった皿とコップを洗う。
最後まで食事の後片づけもできない、自分でヨーグルトを買うこともできない、そんな娘に、なんて言っていいのかわからずにいるのは、自分でも、自分のしたことがほめられたことじゃないとわかっているからだ。
落ちてたからといって、手紙を読んでしまったことも最低だし、それに「いつか男の子を好きになる」という言葉も、言うべきじゃなかった。
あれは、たぶん、私がそう思いたかっただけだ。唯が唯らしく生きてくれればいい、そう思っていたはずなのに、咄嗟にあんな言葉が出るなんて。
だからって、どうするのが正解なんだろう。娘が女の子のことを好きらしい。それに対して、どうしたらいいんだろう。
香ばしい匂いに我にかえると、網の上のパンがこげていた。あわてて火を止めたものの、片面だけが黒々としてしまっている。
「ああ、もう」
引き出しから取り出したナイフでこげを削る。目立つ部分だけを適当に取り除き、バターを塗って一口かじる。苦い。
このままじゃだめだ、と私は思う。
このままじゃ、だめだ。早くいつもの朝食を取り戻さないと。
そう決意して、私は、トーストに残った一番こげたところを、ガリリと噛みしめた。
次回、「行き詰まる庸子に、会計士の中村さんが声をかける…」