月曜の夜、夫から「退職願をオッケーしてもらえた」とメッセが来た。
いよいよだ…後戻りが出来ない一歩を完全に踏み出したんだ。
ふぅ。あとは奏太が桜葉幼稚園でもいいよって思ってくれるかどうか。
無理強いはしたくない。
したくないから…本人の気持ちが動くのを願いたい!
これから先も、家族で話し合いながら進んでいくんだ。 / 最終話 sideキリコ
フォトスタジオへの転職の道を進むことに決め、社長とケンゾーにも退職したいと伝えた満。新しい幼稚園に通うのか、奏太の選択は…?
第29話 side キリコ
願いたかったけど――。
翌日の朝、奏太はプレに「いかない」と答えた。
ガラガラと補助輪を鳴らし、いつもの公園に向かう。
圭吾親子の姿はない。
プレに行ったんだよね。行くって言ってたもんね。
キリコ 「…なにする? お砂でもやろっか」
奏太は「うん」って答えたのに全然楽しくなさそうな顔をして、自転車を降りようとしない。
キリコ 「あぁでも…お砂セット持ってくるの忘れちゃったね。どうしようか」
奏太 「……」
キリコ 「…ブランコでもやる?」
奏太 「けーごくん…」
キリコ 「ん?」
奏太 「さくらにいったのかなぁ」
奏太 「…まってるかなぁ、ぼくのこと」
キリコ 「うーん、奏ちゃんはどう思う?」
奏太の目線にしゃがみ込み、顔を覗き込むと奏太が私の目を見つめ返した。
奏太 「ママ、さくらに見にいってみようっか」
キリコ 「ん?」
奏太 「けーごくんがまってるか、見にいってみようよ。だってさぁ、待ってたらかわいそうでしょ?」
キリコ 「うん、そうだね。そうしよう!」
奏太が自分で考えて判断してくれたことが嬉しくって、自転車を漕ぐ奏太のスピードに合わせて、私は幼稚園へと走り出した。
ちょっと待って、息が上がって…。
く、くるしい…。
そんな私をしり目に幼稚園の門のところまでくると、奏太は自転車にまたがったまま門に立っていた先生に声を掛けた。
奏太 「けーごくんは?」
先生 「奏ちゃんおはよう。けーごくんって、山口圭吾くんのことかな?」
キリコ 「そ…そうです…はぁ、はぁ」
先生 「もう来てるよ。圭吾くんもね、そーたくんは? って言ってたよ」
奏太 「……」
先生 「奏ちゃんもお部屋に行ってみようか?」
奏太はまだ笑顔はないけど、縦に大きくうなずいた。
教室に行くと、すでにプレは始まっていて、きちんと席に着いている子どもたちを見て、奏太の顔はすぐ強張ってしまう。
…あぁ、やっぱりダメなのかな。
そんな風に思いそうになった時、「そーたくん!」と元気な声が聞こえ、前の方の席に座っていた圭吾が立ち上がって手を振ってくれた。
圭吾 「こっちこっち! はやくはやく!」
子ども達の視線が奏太と圭吾に注がれ、固まってしまっている奏太が私の顔を見てきた。
大丈夫。
私が笑顔でうなずくと、奏太はゆっくりと前に進み、圭吾の隣の席に座った。
…あぁ、座った。座ったよー!!
先生 「今日はホールに移動して、マット運動で遊びます。いいですかー?」
子ども達「はーい!」
先生 「保護者の方もあとから移動をお願いします」
圭吾 「そーたくんいこう!」
圭吾が奏太の手を握り、引っ張っていってくれている。
圭吾ママ「奏太くん、来れてよかった」
声を掛けられ振り返ると、下の子を抱っこした圭吾ママが微笑んでいた。
キリコ 「はい、間に合いました」
ホールに移動し、体操の先生指導のもと、子どもたちは4,5人に分けられた。
そして最初のグループが体操マットの上に座ると、先生が「魔法をかけると空飛ぶマットに変身するよ~!」と、マットの端を持って歩き出した。
きゃっきゃと笑う子。
こわいと言う子。
おどける子。
奏太は…ものすごく不安そうな顔をしてる。
圭吾は…うっそ、圭吾も不安そうな顔してる。
圭吾ママ「うちの子、実は怖がりだから、初めてやることは苦手かもしれないです」
キリコ 「あぁ…そうなんですね。大丈夫かな、あのふたり」
最初のグループが終わり、奏太たちの番になった。
奏太と圭吾以外の子どもたちはすんなりマットに座っていたけど、ふたりは険しい顔をして動こうとしない。
先生 「ほーら、乗って乗って。大丈夫、怖くない」
ドキドキしながら見ていると、予想外に奏太が何か圭吾に話しかけた。
「やっぱりやめよう」「ママのところにいこう」なんて言ってないよね??
そわそわしながら見ていると、奏太が圭吾の手を握り、ふたりは同時に歩き出し、マットに腰を下ろした。
「いこうよ」って奏太が声をかけたってことかな…?
先生 「よーし、魔法の呪文ピッピップ~!」
強張ったままのふたりを乗せてマットが動き出した。
先生の走りが急に早くなって子どもたちが体勢を崩しそうになり、ふたり以外の子どもたちの笑い声が聞こえてくる。
先生 「おっと前から飛行機が来たぞ!よけろ~!」
先生が急カーブを曲がると、その勢いで圭吾がマットから転げ降りてしまった。
圭吾ママ「あ」
キリコ 「あ!」
圭吾 「……あははっ! おちた~!」
圭吾が笑いだすと、見ていた子どもたちも弾けるように笑いだした。
呆然と見ていた奏太も次第に笑顔になり、笑い始めた。
奏太 「ふふふ。けーごくん、はやくのって!」
圭吾 「うん! これおもしろいね!」
奏太 「うん」
無事にプレが終わって、圭吾親子と幼稚園を出ると門の前にくたびれた自転車があった。
そうだ、必死で走って来たんだった。
「そーたくんじてんしゃできたんだね。じてんしゃすきだね」と圭吾に言われた奏太は「のっていいよ」と圭吾に自転車を貸した。
「どうやってやるの?」「やっぱりこわい!」と騒ぐ圭吾を見つめながら、私は奏太の小さな手を握る。
キリコ 「貸してあげられたね」
奏太 「うん」
おっかなびっくり自転車を漕ぐ圭吾と共に歩いていると、道の先に白い戸建てが見えて、奏太が「あ、ぼくんち!」と叫んだ。
奏太 「けーごくん、ぼくんち遊びにきていいよ」
圭吾 「やった! ぼくんちもきてね」
奏太 「うん、いいよ」
キリコ 「あー、約束しちゃってる…。まだぼくんちじゃないのになぁ」
圭吾ママ「買うことにしたんですね」
キリコ 「え?あー、あはは…」
まだ購入手続きもしてないのに、「ぼくんち」とか「まだ」って言っちゃってたね、親子で。
この白い戸建て、夫もすごく気に入ってるし。
今夜もう一度、家族3人で話してみよう。
今がその時だと思う。
――その夜、奏太と寝床に入るとカメラ通話で夫に電話をかけた。
今日のプレの出来事を奏太と共に夫に伝えると、夫はうんうんとうなずいて、ひと呼吸置いてから口を開いた。
満 「パパとママと奏太…3人で楽しく暮らしていけるようにさ、やっぱりあの電車の見える白いおうちに住みたいな、と思うんだけど、奏太はどうかな?」
奏太 「うん、すみたい!」
キリコ 「住むなら幼稚園は桜葉になるんだよ?」
奏太 「うん!」
キリコ 「リョウくんやカノンちゃんと同じ幼稚園に行けなくなるんだよ?」
しつこく確認する私の肩に奏太が小さい手を置いた。
奏太 「だいじょうぶだよ、ママ。みんなぼくんちに遊びにきてね、っておてがみあげるから」
キリコ 「本当に本当?」
奏太 「ほんとうだよ。とおくにいっても、みんなずっとハル子ちゃんとハル子ちゃんのママとお友だちってママいってたでしょ? ぼくとママもおなじだよ。だいじょうぶ」
確かに私はあの時、涙と鼻水まみれで言った。
「離れていてもずっと友だち」だと。その気持ちは今もまったく変わっていない。
だから川口のみんなと離れたって、ずっと友だちでいられる。
そう信じられる。
満 「奏太、送別会の時のこと覚えてたんだねー。すごいじゃん」
奏太 「あとさ、けーごくんに、ぼくんちあそびにきてっていっちゃったし、けーごくんのおうちにもあそびにいくし、いそがしいんだよ」
満 「ははっ」
キリコ 「1番忙しくなるのは私なんだけどね。桜葉に願書だして、川口つばさにキャンセル…制服のサイズ合わせもあるだろうし…あぁ」
満 「俺は江原にあの家買うって電話するね。誰かが申し込みしてなきゃいいけど」
キリコ 「ちょちょちょ、怖いこと言わないでよ。今すぐ江原さんに電話して!」
それから1ヶ月――。
幼稚園のキャンセルと入園の手続きに、引っ越しの準備…。
本当に恐ろしいほどやることがあって、ほぼ記憶にない。私がどれだけ忙しかったか察してほしい。
でもそのバタバタやそこまでに至る悩みの日々で得たものは、おそらく夫とともに墓に入るまで続く幸福だと思う。
寒さが和らいだ3月のある日。
私はホットコーヒーとどら焼きを口にしつつ、ヨリミチビヨリから依頼されたスイーツ記事を書いていた。
家の駐車場に車が入って来る音がし、「マーマ!」と奏太の声が聞こえてくる。
私はノートパソコンを閉じ、伸びをしながら窓の外を見た。
夫が買って来たたくさんの花の苗を車から庭へと運んでいる。
赤、オレンジ、黄色。綺麗だな。
バタバタと元気な足音と共に奏太が私に近づき、「プラレールのハンカチ買ったよ」と真新しいハンカチを見せてくる。
満 「お店に圭吾くんも来てたよ。お揃いにしたんだよな」
後から入ってきて洗面所で手を洗いながら夫が話す。
奏太 「うん!」
キリコ 「よかったね、奏ちゃん。楽しみだね、幼稚園」
奏太 「うん!」
満 「これで幼稚園のグッズは揃ったな」
リビングに来た夫がソファーの上に並べられた自作の幼稚園グッズを満足そうに眺めながら、「じゃあ、買ってきたドーナツ食べながら今月の家族会議を始めようか」と言った。
あぁ、この白い家で初めての家族会議だ。
これからずっとこうして3人で続けていけたらいいな。
奏太 「ママ、しょきおねがいね」
キリコ 「おー、書記って言えた」
満 「まずはママ。今月の目標」
キリコ 「うーん、仕事を頑張ることと段ボールの片づけかなぁ。開けなくて済む段ボールはそのまま捨ててもいいくらいだけど」
満 「写真とかでしょ? 捨てないでよ」
じゃあパパが片付けたら? とは言わずに会議を進めましょう。
キリコ 「はいはい。次は奏ちゃん」
奏太 「ねんしょうさんがんばる!」
キリコ 「そうだね、年少さんは来月からだけど、いろいろ準備とかがんばろう。新しいお洋服もかおっか」
奏太 「うん! プラレールとトミカとファイブコマンドのやつ!」
いつの間にやらあなたもファイブコマンドのトリコなのよね。
奏太 「じゃあつぎパパね。もくひょうは?」
満 「引継ぎが終わっていよいよ来週からファミーユ・ウルーズだから…うん、仕事をたのしむ、かな」
キリコ 「あと庭づくり」
満 「そうそう。今から植えるから奏ちゃん手伝って」
奏太 「うん!」
満 「じゃあ今月も短歌いこうかな」
どうぞお好きに。
私が手を広げて差し出すと、夫が姿勢を正した。
満 「ひとりでは 選べなかった 風景も 無限にひろがる 家族の選択」
これから先も迷いながら、話し合いながら、進んでいこう。
2人と一緒なら何にも怖くない。
おわり
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