奏太とキリが岐阜に行った今週の俺は久々の1人暮らし状態だった。
何年ぶり?
夕飯はコンビニとか、弁当屋とか、美味しいものはいくらでも買えたし、洗濯物も1人分だから全然たまらない。
キリにあーだこーだ言われたり、奏太の散らかしたおもちゃを踏むこともなく、俺は服作りに集中できた。
でもね、やっぱり2人がいないとなんていうか、張り合いがないんだよね。
3人で暮らす楽しさを知ったら1人暮らしの自由なんて大したことないって気付いた。
そして金曜日。
お直し業務の報告で久々にフリープランにいた俺の元に、K.Dこと転職エージェントの土井和男から電話がかかってきた。
#26
久しぶりの1人暮らしは、子どもと暮らす楽しさに気付かせてくれる。 / 26話 side満
岐阜にある満の実家近くの公園で出会った男の子、圭吾となかなか仲良くなれなかった奏太だったが、小学校のバザーを通してふたりの関係は一歩前進する。その頃、満は――。

第26話 side 満

会議室で社長とケンゾーがいる中でさすがに電話に出れないわ、俺。
社長 「電話鳴ってるぞ」
満 「…あーーー、はい。ちょっと席外します」
出ない方が変か、そうか。
何にも動揺してませんよ、って顔で俺は会議室を出て、誰もいない廊下に向かう。
左右を確認してから電話に出ると、土井が「おめでとうございます」と言った。
土井 「満さん、書類選考が通りましたよ」
満 「ほ…本当ですか! やった…」
思わず大きな声を出して再び左右を確認する。
やばい、ここは辞めようとしている会社の中だった。
土井 「次はいよいよ面接ですね。具体的にいつから勤務できるかなど聞かれると思います」
喜んだ顔が一気に凍っていくのが分かる。
そうだ、その試練が待っていたんだ。
「辞めます!」って言わなきゃいけないんだ。
引継ぎもあるし、なるはやで…。
胃が痛いけど、先延ばしにしてると胃痛が胃潰瘍に達してしまうかもしれない。
土井から今ここで電話が掛かって来たのは、神様が「早く言っちゃいなさい」って言ってるからに違いない。
俺は電話を切ったあと、気合いを入れるように拳を作り、会議室に戻った。
社長 「どうした? そんな怖い顔して。なんかあったのか?」

わ、さっそく顔に出てますか。うぅ…。
ケンゾーも不思議そうな顔で見てるぞ。
俺にパワーを! 岐阜から送ってくれ、奏太! キリ!
満 「じ…じつは」
――俺から転職話を聞いた社長とケンゾーが固まってしまった。
ち、ちんもく…。
満 「…ララウにも自分できちんと話します。お直し業務の引継ぎをしっかりやって」
社長 「ちょちょちょちょ、待てよ。ララウの受付業務が合わないんだな?」
満 「いや…」
社長 「心配するな。マネージャーに戻すから」
満 「いや…あの…本当にすみません。長年お世話になって、感謝しています。でも辞めさせてください」
社長 「ちょっと待ってくれよ。辞めないでくれよ」
俺の本気度に焦った社長が前のめりになった時、社長のスマホが鳴る。
仕事先の人と手短に話し電話を切ると、社長は大きなため息を吐いた。
社長 「俺、出なきゃいけないからケンゾーあとは頼んだ」

社長が会議室を出て行き、再び沈黙。
チラリとケンゾーを見ると怖い顔をしている。
うぅ…怒ってるのかな?
ケンゾー「満さん前に、言ってたじゃないですか」
満 「え…なんだっけ」
ケンゾー「俺は転職しないって言いましたよね」
…言ったね。
でもあれはあれで家族のためで、今回転職したいのも家族のためなんだよー。
ケンゾー「この間のランチの時からなんか変だなーって思ってたんすよ」

あぁ…気づいちゃってたんだ。
必死で隠したつもりだったんだけど。
でもあのメンバーの中で気づいたのはケンゾーだけだろうな。
あの時のメンバー……あ。
満 「ちょっと話変わるけどさ……」
ケンゾー「なんですか」
満 「黒沢さんのことなんだけど」
ケンゾー「大丈夫ですよ。俺、あーゆーの慣れてますから」
満 「え?」
ケンゾー「学生のときも、付きまといとか、待ち伏せとか、けっこうやられてました」
満 「えー、大丈夫だったの?」
ケンゾー「そういう子って、俺っていうか、俺の恋人に攻撃しようとするんですよねぇ。ちょっと警察沙汰になったこともあるけど…」
さすがモテる男のエピソードはすごいな…。
ケンゾー「でも安心してください。うちのさっちゃんは空手黒帯なんで。おそらく一般男性くらいは倒せます」
うん、安心した。頼もしいお嫁さんだね。
――必死で俺を説得しようとしたケンゾーの顔や言葉が、帰りの電車に乗る俺の頭の中でループしている。

「辞めるなんて言わないでください」
「地元に帰るなんて言わないでくださいよ」
「ずっと頑張ってきたじゃないですか」
「いいんですか? それで本当に」
確かに頑張ってきた、今日までずっと、ここ東京で。
本当に地元に帰って後悔しないのか。
そんなこと聞かないでくれ。揺らぐじゃないかよ…。
思わず大きなため息を吐くと同時に江原からメッセが送られてきた。
メッセ 「送り忘れてたわ~!」
送られてきた動画を見ると、そこにはバッティングセンターで転ぶ俺と、大笑いする江原、タカヒロが映っていた。
あぁこの夜サイコーだったな。
しっかりしろ、俺。
地元に帰るのは仕事のためだけじゃない。
奏太やキリ、家族、友人とこれからの人生を楽しむため。
楽しめる親父になるため。
揺らぐな、俺。

――翌日。
俺は新幹線で実家に向かい、転職しようとしていること、書類選考が受かったことを家族に話した。
大喜びした兄ちゃんは泣きながら酒を飲み始めるし、まるでもう転職成功みたいな雰囲気で参ったけど、みんな喜んでくれたから俺もすごく嬉しい気分で布団に入った。
キリコ 「パパ、改めておめでとう」
満 「…なんだよ、まだ面接があるでしょ」
キリコ 「そうだけどさ。…川口つばさ幼稚園の制服受け取りと代金支払いが迫っているけど、こうなったらギリギリまでやってみようね、いろいろ」
満 「そうだね」
キリコ 「さー、もう寝よう。明日は5時起きだよ」
満 「別にいいんじゃないの、俺たちは参加しなくても」
キリコ 「奏ちゃんに体験させてみたいんだよ、ほうれん草取り」
明日は1月最後の日曜日。
子どもの頃から円田家の一大イベント。
家族全員でほうれん草の収穫を手伝う。
まさか自分の子どもも参加することになるなんて、なんだか笑える。
体も気持ちも引き締まるような冷たい空気――。
気持ちの良い冬晴れの下、円田家全員、農作業着になり、園芸振興会ほうれん草部・会長の畑に集まった。

そこには会長家族、タカヒロの両親や近所の人たちなど、総勢15人くらいがいる。
会長 「今日は皆さんありがとうございます。ほうれん草を刈るグループと、収穫したほうれん草を袋詰めにするグループに分かれて作業していきます。袋詰めのグループはまず、うちの母ちゃんと一緒に昼飯の用意をお願いします。刈るグループは終わったあと鎌などの掃除もお願いします。皆さん、ケガのないように無理せず頑張りましょう!」
一同 「おー!」
小学生や奏太と同じくらいの子どもも何人かいて、さっそく彼らは泥だんご作りを始めた。
奏太は「人見知り」より「泥だんご作り」が勝ったようで他の子とおしゃべりはしてないけど、せっせと泥を丸めている。
母・真由美と義姉・千晶は袋詰めグループになったから、先に昼飯作りに参加。
俺とキリは鎌を借りて、せっせとほうれん草を収穫していった。
しゃがんで作業していくから、腰、脚、膝などが徐々に疲れてくる…。
うん、確実に年々きつくなってく。
よくやってるな、お年寄りの皆さん。
尊敬します。
2時間ほど収穫し、刈るグループはほうれん草を袋詰めグループに渡し、鎌などを洗ったり、長靴についた土を落としたり、土汚れがある子どもたちを綺麗にして、少し休憩に入った。

会長宅の縁側に腰を下ろす。
あぁ、朝日が温かい。
気持ちいいなぁ。
やっぱり好きだな、この年一行事。
程よい疲労感と満たされていく心を感じていると、キリが俺の横に座り「きもちいいね」と笑った。
満 「キリ」
キリコ 「なに?」
満 「来年もやろう」
キリコ 「そうだね」
満 「来年も再来年も。ずっとやれるように面接がんばるよ」
キリコ 「うん、頼んだ」

それからしばらくして袋詰めグループも作業が終わって、会長の掛け声とともに11時前に早めのお昼ご飯になった。
会長宅の茶の間に入るとまったく変わっていない風景に驚かされる。
みんなで食べるこのローテーブルも、野菜中心のたくさんの料理も、部屋の香りも。
子どものころのままだ。
全員が席に着き、恒例の食事会が始まった――。

▶︎▶︎ 次回、27話は、5/15(火)20時公開予定!

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