はぁーー。
1人になった途端、全身の毛穴が開くような感覚。
朝の6時に起きて早く新幹線に乗りたいとはしゃいでいた奏太を連れて、夫は8時ちょい過ぎに家を出た。
はぁーーでもお腹の辺りに力が入るような緊張感。
もうどっちの「はぁーー」なのかわかんないけど、とにかく用意しないと…。
今日、打ち合わせに行くヨリミチビヨリは新橋にある。久々の打ち合わせにそわそわしている早めに家を出た。
キリコ 「あぁ良い天気だ。きもちいい。けど…緊張する」
打ち合わせに行くのは何年ぶりだろうか。
どんな格好をしていくのか、どんなバッグを持って行くのかもすっかり忘れ、とにかく少し小綺麗な服を着て、小綺麗なバッグ…、が見つからず、けっきょくいつも背負っている黒いリュックにした。
1人で電車に乗るのも久しぶり過ぎて、スマホニュースを見ても全然頭に入って来ない。
遠くの席で騒ぐ子どもの声が聞こえて「お母さん頑張れ」とテレパシーを送ってみる。
そんなこんなで新橋駅に着き、何度もグーグルマップを見ながら歩いていくと、あぁここ知ってる、という感覚が飛び込んでくる。
鼻から息を思い切り吸い込み、ヨリミチビヨリがある5階のインターフォンを鳴らす。
キリコ 「吉田さんと本日10時半に打ち合わせの約束をしました、ライターの円田そう…キリコです」
やばい思わず「ライターの円田奏太」と言いそうになった。
吉田 「お疲れ様です。どうぞ~」
オートロックが解除されエレベーターで5階に向かうと笑顔の吉田さんが待っていた。
吉田 「わー、お久しぶりです」
吉田さんは淡いイエローのリネンワンピースに、黒いパンツを合わせていた。
ラフなのにだらしなく見えなくて、かつ、かわいい!
あぁ、小綺麗ばかりを気にして、無難な格好をしてきた自分がなんだか恥ずかしい。
吉田 「どうぞ、どうぞ~」
キリコ 「ありがとうございます」
中に入ると、間仕切りのないスペースにカラフルなテーブル席が並んでいる。
キリコ 「なんか…編集部内、代わりましたよね? テーブルとか椅子とかカラフルになってカワイイ」
吉田 「あー、そうなんですよ。去年かな? 改装して。前にキリコさんが編集部に来たのは…お子さんが生まれる前ですもんね」
キリコ 「はい。あー、でもメールのやり取りが多かったし、何気に5年ぶりくらいかも」
吉田 「おー、そんなに。ようこそ、ヨリミチビヨリへ。なんて」
吉田さんに案内されて私はクリーム色のテーブル席に座った。
キリコ 「いやー、相変わらず吉田さんカワイイです!お子さんがいて、仕事もバリバリしてて…」
吉田 「本当ですか? これは子たちに自慢しなきゃ。はは」
キリコ 「お子さんっておいくつでしたっけ?」
吉田 「長男が7歳、小1で、長女が5歳です」
キリコ 「わ、小学生」
吉田 「キリコさんちの息子さんは来年の4月から幼稚園なんですよね。キリコさんが自主的産休に入るって連絡をくれたのが昨日のようですよ」
キリコ 「すっかり老けましたよ。子育てが予想よりはるかに大変で」
吉田 「ですよね~。やってみた人にしか分からない大変さっていうか」
キリコ 「テンパってるママも見ると、テレパシーで応援しちゃいますもん」
吉田 「あはは。送ってほしい」
同い年ふたりが揃うと、無駄話が止まらない。
夫に話しても「へぇ」とか「そうなんだ」しか返って来ない話にも、欲しい返答が返ってきて楽しいわ~、と思いながら出してもらったホットコーヒーを口にすると、吉田さんは仕事の話を始めた。
吉田 「ママ向けアプリの企画立ち上げを私が中心になって動いています。今、キリコさんといろいろ話して、わかる~ってなってましたけど、まさにその感覚を共有できるようなアプリ、サイトにしたいと思っていまして」
キリコ 「なるほど」
吉田 「ママの気持ちにぴったり寄り添いたい、がメインテーマなので、スタッフも全員ママ、そしてお願いするライターさんも全員ママにしようと」
キリコ 「おお、こだわってますね」
吉田 「やっぱり自分が子育て中ですからね。欲しい情報がいっぱいですよ」
キリコ 「わかります」
吉田さんと私は目と目を合わせ、うんうんとうなずく。
吉田 「で、ですね。過去に一緒に仕事をして、この人に任せたい! と思える人にだけ声をかけさせていただいていて、キリコさんにもお声をと思っていたら、キリコさんの方からメールがきたので、これはもうグッドタイミングだと思いましたよ!」
そんなことを言ってもらえるなんて…!嬉しすぎる!もういっそ吉田さんとハグしたい!
…と、心では思っているのに、私は吉田さんに笑顔を返すことが出来ない。
キリコ 「…ありがとうございます」
吉田 「…?」
私の予想外の反応に吉田さんが不思議そうな顔をしている。
あぁ、RAIRA事件のこと話さなきゃ…。
すんごい話したくないけど、言わないとモヤモヤするし…。そのために来たんだし…。夫も背中を押してくれたんだし。
…よし。覚悟を決め、鼻から息を吸い込むと、先日仕事を落としたことを吉田さんに話した。
吉田 「そっかー……」
「じゃあ結構です」と言われるんじゃないかと次の言葉が恐ろしくて私から話し出す。
キリコ 「あー、あのー…。さっき、ライターはママのみって言ってましたよね。他のライターさんって仕事と子育ての両立ってどうしてるんですか?」
そう、それ。よく言った自分。
両立できる方法が分かれば、どうにかやれるかもしれないし。
吉田 「他の皆さんは…保育園に預けていたり…ですかね」
まさかの保育園!え、待機児童問題は?
だって、他のライターさんだってフリーですよね?
キリコ 「保育園…みなさんフリーでも預けることが出来たんですね」
吉田 「地方だと大丈夫なところも多いみたいですよ。待機児童ってどうしても都市部に集中しちゃってるから」
キリコ 「地方の方もいらっしゃるんですね」
吉田 「はい。…あっ」
吉田さんは手を顎に当て、驚いたような表情を見せる。
吉田 「というか…地方の方ばかりですね、考えてみたら! 一番、量を請けてくれそうな方は北海道ですしね」
キリコ 「北海道!?」
吉田 「ほら、今はビデオ会議できるし、やり取りはメールとかでやってるから…どこに住んでるか気にしてませんでした」
キリコ 「確かにそんなしょっちゅう打ち合わせする感じでもないし」
吉田 「ですね。そう考えると、都内近郊に住んでなきゃいけない理由が…あんまりないかも」
言葉にされて改めて気づく。パソコンとネットがあればどこにいたって仕事が出来る。
でもそれで解決できない問題があるじゃないの。その問題でRAIRAの仕事を落としたんじゃないの。
キリコ 「でも、でもでも、子どもが熱を出した時とかは、保育園を休ませるじゃないですか? そうなると…仕事は出来ませんよね?」
家にいるんだから家事も子育ても出来るよね?
と思っている人も中にはいるけど、家で子ども見ながら仕事するのは不可能なんだよ…。
邪魔されまくって苛立って怒って集中できないのがお決まりパターン。
え?みんなどうしてるの…。マジ教えてほしいわ…。
吉田 「あぁ地方に住んでるライターさんは、実家か義実家の近くに住んでる、とか、同居されてる方も多くて」
あー…そのパターンですか。
吉田 「私も夫の実家に同居してて。今日も夫と義両親に任せてきました」
キリコ 「えー! そうなんですね!」
…そっかー。同居かー。うーん、それはないなー…。
キリコ 「うちの姉が義実家に同居してるんですけど…大変じゃないですか?」
私の質問に吉田さんはニコリと微笑み、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
吉田 「実際、大変なこともありますよ。でも五角形のレーダーグラフを綺麗な形にしたいタイプなんです、私」
レ、レーダーグラフ…?
きょとん顔の私に、吉田さんは「暮らしを客観視する」ある方法を私に教えてくれたのだった――。
▶︎▶︎ 次回、15話は、3/30(金)20時公開予定!