バタバタしながら原稿を書いた1週間。
ボロボロの原稿をほぼ修正され、私の手元に残ったのは、散らかった部屋と、気管支炎になってしまった奏太と、親としての自分の罪悪感と嫌悪感――。
18時に記事が公開されたことを確認してから、こたつに突っ伏したまま固まっていると、「ただいま」という声が聞こえてきた。
顔をあげると、寒さで鼻先を赤くした夫が立っている。
満 「遅くなってごめん。メッセしたんだけど見た?」
キリコ 「ごめん、見てないや」
満 「奏太は?」
キリコ 「吸入機と薬が効いてるみたいで、今は寝てるよ…」
満 「ありがとう。どら焼き買ってきたよ。あと適当に夕飯のおかずも買ってきた」
キリコ 「…マジで? ありがとう…助かる」
満 「あとこれ、奏太に本買ってきた。本当はもっと早く帰れる予定だったんだけど、事務所に呼ばれてさ…」
怒る元気もない。怒ったところで、どうせあの原稿は書けなかった。
満 「キリ、仕事は? 終わったの?」
キリコ 「んー…」
満 「看病、代わる。仕事していいよ」
キリコ 「いや…それがさ」
満 「どうしたの?」
夫はコートを着たままこたつに入って、私を見つめた。
キリコ 「仕事…落とした」
満 「………あー」
キリコ 「こんなこと初めてだー…」
子育てしながら、自分が高熱になった時のつらさと言ったら…。 / 第8話 sideキリコ

4年ぶりの仕事の〆切の土曜日。原稿を仕上げるつもりでいたキリコだが、満が突然出勤することに。気合で子連れ取材に出かけるも失敗し、帰宅後、奏太が発熱。小児科に連れて行くと気管支炎と診断されてしまう。私のせいだ…後悔するキリコは原稿を仕上げることを断念し、RAIRAの神林に電話をする。妊娠するまでずっと仕事をしてきたけれど、こんなことは初めてだ…。

第8話 side キリコ

言葉に出したらまた泣きそうになって、私は突っ伏して顔を隠す。
満 「気持ちは分かるけど……仕方ないんじゃないかな。奏太が気管支炎になってるんだし」
キリコ 「うーん…」
満 「もともと奏太が入園してから仕事するつもりだったんだしさ。まだムリだったんだよ、うん。両方は大変なの分かるよ」
私はむくりと顔を上げる。
キリコ 「いやさ。私だって、そんなこと分かってるけどさ!」
満 「…うん」
キリコ 「やりたい時に仕事ないかもしれないから、今はほそ~い糸でもさ、しっかり掴んでおこうと思ったんだよ!!」
夫が優しい言葉をかけてくれているのは理解できるけど、どうしてだろう。ものすごくカチンときた。
満 「ちょ…怒るなよ。俺はただ、今、無理する必要ないでしょって言っただけだよ」
キリコ 「あるでしょ! 無理する必要あるでしょ! あの家、買いたいでしょ!? あの屋上庭園があるやつ! 私が働かないと買えないでしょ!?」
興奮して話す私とは対照的に、すっかり疲れ切って覇気のない夫がぼんやりと空を見る。
満 「…正直、俺、そんな無理して買いたくないかな。あの家」
キリコ 「え?」
満 「4500万だっけ? 払えないって。いくらキリが頑張って働いてくれたってさ、これから先、キリが何かしらで働けないこともあると思うよ? フリーなんだしさ。そんなぎりぎりで買うなんて怖いよ」
う…。そこを突かれると今は何も言えない。さっそく仕事を落としてるし…。
あんな修正されまくった原稿のギャラが発生するのか確認することすら恐ろしい。
キリコ 「じゃあ……どうする? 1駅先の南鳩ヶ谷駅あたりで探す?」
満 「南鳩ヶ谷か…。だったらもう浦和とか、大宮の方が便利なんじゃない?」
えぇ? これまた意外過ぎる回答に驚かされる。

キリコ 「ちょっと待って。…川口を離れるってこと?」
満 「それも選択肢にあるかなって」
キリコ 「いやいやいや…奏太の幼稚園の願書だしたじゃん!?」
満 「そうだけど…。まだ入園したわけじゃないし…幼稚園より家の方が一生モノなんだし、幼稚園基準で家を買う場所を選べなくなるのはどうかな…」
ちょっと待って、ちょっと待って。
幼稚園入園ってさ、文字にしたら一文だけど、そのために私がどれだけの努力をしてきたと思ってるの…?
新しい土地で一から? おいおい、待っておくれ。
キリコ 「いやいやいや。入園するために5月からプレにも通ってるんだよ? それだけじゃないよ。近所のお友達と仲良くしたりさ、ママ友だって出来たし。そーゆーのがあったから、奏ちゃんだって仲良しさんたちがいるんだよ?
満 「うん…」
キリコ 「えー、びっくり。川口以外に家を買うなんてぜんっぜん頭にないよ、私。えー、なんで? 奏ちゃんが可哀想とかないの?」
満 「そりゃ…引っ越したら寂しい思いをするかもしれないけど、無理して買ってローン返済ができなくなって、引っ越す…なんてことになったらその方が可哀想でしょ?」
キリコ 「そうならないように頑張ればいいんじゃん」
満 「頑張ってもどうにもならないことだってあると思うよ? それにさ、奏太の友達の家ってみんな賃貸だよね? これからみんながみんな川口に家を買う保証あるの?」
キリコ 「…それはそうだけど」
満 「それに俺…正直、そんなに川口にそんなに思い入れないよ?」
キリコ 「………え?」
出た、爆弾発言。温度差、すごい。夫婦間温度差やばい。
満 「奏太が生まれてこれまで育ってきた思い出はあるけどさ、俺はキリと違って友達がいるわけでもないし、平日は会社に行っちゃうからキリほど川口に詳しくなってないし。考えてみたら、俺だけの知り合いって川口にいないしね」
もう言葉もないわ。
奏太 「…ゴホッ、ゴホッ!」
キリコ 「そ…奏ちゃん」
奏太の咳が聞こえ、私は夫から逃げるように寝室に向かった。
あー、なんかなんとなく見えているように思えたこの先の人生計画が白紙に戻った感。どこに家を買うかすら、決まってなかったんだ、円田家は。
奏太 「ママ…、…ゴホッ、ゴホッ!」
キリコ 「大丈夫? ママが一緒に寝てあげるからね」
奏太 「うん。おててつないでて」
キリコ 「うん」
あー、なんだかとっても疲れた。とっても眠たいんだ、パトラッシュ。このまま眠ってしまいたいんだ。
あー、なんだか寒い。布団かぶってるのに寒い――。

満 「キリ?」
声をかけられて、うっすら目を開けると、夫はもうお風呂に入った後のようだ。
キリコ 「んー…」
満 「大丈夫? 顔赤いけど」
夫の手が私のおでこに触れる。ひんやりして気持ちがいい。
満 「おでこすごい熱いよ?」
キリコ 「んー…」
満 「ほら、体温計。熱はかって。」
キリコ 「んー…」
――ピピッ
脇に挟んだ体温計が音を鳴らし、私の体温が38.9度だということを教えてくれた。
満 「…うわ、熱あるじゃん」
キリコ 「………」
奏太のがうつったのかな? …いや、たぶん久しぶりに仕事抱えて気を張ってたから、それが一気に緩んだんだ。
うん、前にもこういうことあったな。
独り身の時は、宅配ピザとか頼んでさ、寝てればよかったし。結婚してからは夫が看病してくれたけど。
親になってから高熱出すとさ、ホント地獄。
どんなにつらくたって、育児と家事があって、それを放り出して寝ていたくても、出来ない。
ママに甘えたくて寂しがるわが子をほっとくわけにもいかないし、洗濯をしないと、熱で汗だくになったパジャマの替えがなくなってしまう。
ご飯がなければ空っぽの胃で薬を飲まなくちゃいけなくなるし、
月の食費を考えると家族全員分の出前ばかり取ってはいられない。
はぁ…。不幸中の幸いなのは、明日が日曜だという事。夫が休みで良かった。
満 「39度近いって…まさかインフル?」
キリコ 「いや…予防接種したし…違うと思いたい。…うぅ、今度は寒気がしてきた」
満 「……どうしようかな、俺は明日も休日出勤だし」
キリコ 「……え?」
満 「明日も行かないとでさ」
キリコ 「はーーーー? だって明日日曜日…」
満 「だから新規事業立ち上げ担当なんだって。明日は作業場の内見があって」
キリコ 「…だからって言われても…しらんわ」
ムリムリ。この状況ムリ。
満 「…母ちゃん、来てくれるかな…。もう仕事してないんだし、大丈夫か。ちょっと電話してみるわ」
おいおーい。ムリポイントを増やさないでくれませんか。
え、発熱プラス義母・真由美登場? 余計、熱出るわ。
キリコ 「……ちょっとやめてよ」
満 「どうして?」
キリコ 「…どうしてって…気を遣って疲れるに決まってるじゃん」
あなたにとっては大好きなお母さんでも私には他人ですから! ね!
満 「そんなこと言っても、どうするの? 2人に何かあったら困るよ」
キリコ 「…じゃあ休んでよ」
満 「………子どもみたいなこと言うなよ。電話しとくからね」
キリコ 「あー、ちょっと…!」
思い切り腕を伸ばし、立ち上がろうとする夫を捕まえようとしたけど、体の節々が痛すぎて、私の腕はまったく上がらなかった。
やめて、やめて、やめてぇぇ…。

――日の光でふと、目を覚ますと体調は最悪だった。
喉は痛いし、頭もつぶれるように痛い。汗で体はべたついてるし、鼻詰まりもひどい。
隣で寝ていたはずの奏太がいない。
手元のスマホを見ると、「9:09」と表示されている。
キリコ 「…あ、れ、パ、パ、し、ご、と、げほっ! げほっぉお!」
私は起き上がれず、寝室を這って出る。貞子風な登場でリビングに行くと、夫がさんさんと太陽の光が降り注ぐベランダでお客用の布団を干していた。
あぁ電話したのね…。それ、真由美のために干してる布団なのね…。
奏太 「あ、ママ。大丈夫?」
おでこに冷えピタを貼った奏太がこたつに入ってゼリーを食べている。
キリコ 「…ダメェ。ゲホッ、ゲホッ」
満 「起きて来なくていいのに。俺が行くまで寝てなよ。奏太、ほら、薬」
ベランダから戻った夫が私を見ずに言う。忙しそうだな。
奏太 「えー、にがいの?」
満 「苦いの?」
キリコ 「…甘いよ、ゲホッ、ゲホッ」
満 「甘いって」
奏太 「じゃあのむ」
キリコ 「ねぇ…お義母さん…」
満 「もう向かってる」
キリコ 「……あのさ」
私の言いたいことを聞かず、先回りして夫が口を開く。
満 「子どもみたいなこと言わないで。あと1時間くらいで着くって。俺も出来るだけ早く帰るからね。わかった?」
キリコ 「……う、うん」
満 「奏太、ママ、お熱出てるからちゃんとおばあちゃんの言うこと聞いてね?」
奏太 「うん! おばあちゃん、ぼくんちにおとまり?」
満 「そう」
奏太 「やったー!」
小児科でもらった薬が効いたのか、奏太は元気になってる。一方の私は…。
キリコ「…39.1。上がっとるやん…」
これは何の試練でしょうか。この先に何かいいことありますでしょうか、神様。
――それから奏太の見たいテレビを流しつつ、私は寝転がった状態で、奏太の車遊びに付き合った。
もう泣き出しそうなほどしんどくて、しんどくて、「奏ちゃん、ママもうだめだわ」と言ったところでインターフォンが鳴った。

奏太「おばあちゃんだ!」
正直、助かった、と思った。義母の相手は面倒だけど、ちょっと今は猫の手も借りたい。
奏太が飛びきりの笑顔で玄関に走り、鍵を開けると、そこにはたくさんの袋を持った義母・真由美が立っていた。
真由美 「こんにちは~。奏ちゃん!」
奏太 「おばあちゃん! きたの? ぼくんち、きたの?」
真由美 「来たよ~」
奏太 「しんかんせんできたの?」
真由美 「うん。ママは?」
奏太 「いるよ! お熱出てるの」
ふぅ。私は小さく息を吐き、しんどい体を起き上がらせ、玄関に向かう。得意の外面を発揮しなくては。
義母と奏太と高熱のわたし。初めての状況を私はどうやって乗り切るのだろうか――。
夫よ、早く帰ってきて…。

▶︎▶︎ 次回、第9話は、3/6(火)20時公開予定!

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