「~~神話」は、そう名づけられただけで、信用ならないものという意味あいがこめられていますが、一方で、そういいたくなるほど、世間では根強い思いこみがあるということでもあって、しかも、そこになんの根拠もないというわけではない。
そこがややこしいところです。
たとえば「母性神話」ですが、ここで「母性」ということばを、こどものありのままを受け入れて慈しむという意味でとれば、それを「神話」というわけにはいきません。
じっさい、人間の赤ちゃんはまったく無力で、自分でできることはほんとにかぎられていますから、哺乳〔ほにゅう〕にせよ排泄にせよ、睡眠にせよ移動にせよ、ほとんどのことを周囲にゆだねざるをえないわけで、周囲にそれを当然のこととしてひきうける心性がなければなりません。
それを母性というのは、あくまで比喩〔ひゆ〕の話であって、文字どおりに母親のみが担うということではなく、だれであれ、その種の母性の持ち主であればいいのです。
ただ、ここでさっそくただし書きを加えておかなければなりませんが、「こどものありのままを受け入れる」といっても、なんでもこどものいいなりになるということではなくて、生身の人間ですから、無理なことは無理で、たとえ相手が赤ちゃんでもすべてを受け入れてよいわけではありません。
そこのところは「適当に」ということが肝要。
そうでなければ文字どおりに「神話」になってしまいます。
「三歳児神話」というのも、「三つ子の魂、百まで」といわれるだけの根拠はあって、そのころには生まれ持った性分がはっきり見えるようになって、それがその後もそうそうかんたんには変わりません。
だけど、まちがっていけないのは、この性分は周囲が自由につくれるようなものではなくて、草花の育ちと同じように、人為を超えてできあがってくるものだということです。
まわりの人間にできるのは、育ちに必要なだけの光と肥料をほどこして、あとは楽しみながら待つことくらい。
過剰な期待をもって、無理なことをやってしまえば、かえって育ちがいびつになってしまいます。
人間も自然のひとつ。
それを人為で左右できるかのように思うことこそが、じつは「神話」の起源かもしれません。
(「ちいさい・おおきい・よわい・つよい」115号『親になるまでの時間・前編』より)
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「ちいさい・おおきい・よわい・つよい」115号『親になるまでの時間・前編』
「ちいさい・おおきい・よわい・つよい」116号『親になるまでの時間・後編』